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『2ch時代の祭りは人情とユーモアがあった』は回顧主義か

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冷静に見てどうなのだろうか いや、もちろん、2chも相当クソだったよ? 便所の落書きとも言われてたし、 犯罪の温床とも言われてたし、 実際、そのほとんどはクソスレだったわけだし。 でも、なんか記憶に残ってる祭りって言うと楽しいのばっかなんだよね。 田代砲のやつとかさぁ ポケモンの投票で小学生泣かそうぜとかさぁ 日本鬼子の概念、上書きしようぜとかさぁ あーゆうなんか、どーでもいいことに全力で当たってノリと勢いでバカ笑いするみたいな文化 確かにあったじゃない? 中盤以降は釣りとか創作もかなり出てきたから、なんとも言えないけど、 小学校作ったりとか、良い話も結構あったじゃない。 私がそーゆうのばっか見てただけかもわからんけど、 でも、そーゆうのが表に出てきてたから目についた、 というのも確かにあって、 今、この令和の世に当たって、私の目にそーゆうのが届いてないのよ。 どっかにはあるのかもしれないけど、少なくとも届いてない。 届いているのは、あれはけしからん、とか、あいつはゆるせん、とか、 そんなんばっか。 つまりこれはさぁ ひとつには評価のアルゴリズムに寄るところがかなり大きいのではないか。 要するに人間のネガティビティバイアスのために、 楽しい、面白い、よりも、 怒り、不満、ねたみ、などの投稿に、 より目が行くことで、 そこにアクセスや評価が集まり、 アルゴリズムはその偏りを検知して、 更にネガティブなものに重み付けを加えて露出を増やす。 そのスパイラル。 これは、YouTubeをやってる時にまざまざと思い知ったけど、 やっぱ、ネガティブワードてんこ盛りで煽り散らかすようなサムネにすると、 再生数の伸びが如実に違うのよ。 あまりにも違うから、どうしてもそれに頼らざるを得なくなる。 そうすると、アルゴリズムに乗って、どんどん露出が増えていく。 今、世界のあらゆるところでこの現象が起きている。 笑いや優しさが、怒りと不安に覆い隠されていく。 ユーモアよりも強い言葉 文脈よりも勝ち筋 いいねやフォロワー数が可視化される世界では、 どうしてもそういうものが重要になってしまう。 そして、2chでよく槍玉に挙げられていた"匿名性"というのも、 実はいい面もあったのかもしれない。 今は実名ではないにしろ、アカウント性になり、発言は全てアカウントに紐づいている。 こ...

アリのバカさ加減に宇宙の真理を見る

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この前、庭のアリを観察してたんですけど、奴らのバカさ加減にはほとほとヘドが出る ダンゴムシの死骸を一人で運んでる個体がいたのよ。 それを見てたんだけど、 ちょっと引っ張っては離し、周囲をウロウロ。 また掴んでは離し、ウロウロ。 なかなか進まない。 そして終いにはウロウロしてる内にダンゴムシを見失って向こうへ行っちゃって、結局帰ってこなかったという・・ そして次に来た2匹は、お互いに邪魔して奪い合うような感じで運んでる。 あぁ、別の巣の個体同士が取り合ってるんだろうな。 そう思って見てたら、最後、巣に到達して、結局二人とも同じ穴に入ってったとか・・ マジかよ! もっとちゃんとして! 男子掃除して! って話じゃないですかぁ どーゆうことやねん、と。 アリはもっと統制の取れた組織的な生き物ちゃうんか、と。 そんなクソ雑魚挙動のアリどもを見ながら激しくいぶかったものだったのですがしかし。 一匹一匹はランダム性が強く、ミスも多く、非常にアバウトな動きをしているものの、 結局、結果的にはダンゴムシの死骸は巣穴に持ち運ばれた。 全体のシステムは機能しているのだ。 そこに居るアリ1匹1匹は全くのおバカさんなのにも関わらずだ。 なぜか。 これが数と時間のマジック。 その個体一つ一つは非常に単純なルールの下に動いているだけなのだが、 しかし完全なランダムではなく、少しのルールが備わっている。 その少しのルールが寄せ集まり、数の暴力が生まれた時、そこには確率の世界が顔を出す。 確率とは、時間を経るごとにその偏りに収束する力だ。 つまり、アリの生存戦略は数と時間込みなのだ。 そこにアリのしたたかな強さがある。 個々の賢さを上げて精度を高くすればダンゴムシの死骸は恐らく最短距離で巣穴に持ち運ばれただろう。 そして、他の個体も次々に獲物を運び入れる。 大成果だ。 しかしそこには落とし穴がある。 精度を上げる為にロジックを固めていくと、横からの攻撃に脆くなる。 つまり環境変化だ。 一つの環境に最適化された無駄を排した動きは、 短期的には非常に高いパフォーマンスを見せるが、 環境変化の激しい自然界においては脆弱であり、 急激な変化に対応できず、最悪一族もろとも絶滅してしまうことにもなりかねない。 いや、実際絶滅してきたのだろう。 今残っているのは、そうした荒れ狂う環境変化に対応できて来た種なのだ。...

青春タイムマシン

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そんなわけで最近数回に渡ってお話している青春論。 その実践編として、五十路を向かえた私の新たな挑戦であるところの、 『ネット黎明期のテキストサイト復活プロジェクト』 これの全貌をつまびらかにしてきたいと思う次第でございます。 さてしかし、 意気揚々と新たな船出に漕ぎ出したわけですが、 これがいちいち上手く行かない。 PCの奥に眠っていた、いにしえのファイルを掘り出してサーバにアップするも、 全て文字化けして読めない。 CGIは機能しない。 スマホで、まんべんなく表示が崩れる。 それらを本当に試行錯誤の苦難の末にひとつひとつ解決していく。 CGIが動かないのなんて酷いよ? サーバ会社のCGIの説明通りにやってんのに、 その説明自体が更新されてなくて古い情報のままだったというね。 だってこの令和の世に誰もCGIなんて使わないもん。 そら更新もしないわ。 しないしない。 こんなん苦情出しても完全にカスハラですよ。 いやぁ、この罠を見破るのにはホントに苦労した。 だいぶ悩みましたよ。 しかし。 しかしだ。 言わせてもらうと、その試行錯誤こそが"青春"なのですよ。 苦難に苦難を重ね。 あーでもない、こーでもない。 遂には諦めかけて・・ しかし諦めきれず。 更に深く追求していく。 そして全ての苦難の果てに遂に表示されたアクセスカウンター この嬉しさたるや! ドーパミンどっばーーーですよ。 誰も見ていない。 評価もない。 にも関わらず。 私の脳内では激しく神経伝達物質が分泌され、 充足感 達成感 高揚感 恍惚感 あらゆる感情が交錯し、 心の底から打ち震える。 たかだかカウンターだろ? ノン! これは世界を牛耳るアルゴリズムに対するカウンターカルチャーだ! キミ達は情報を見ているのか それとも見せられているのか 自らの意思で行動しているのか あるいは行動させられているのか その動画は本当に見たくて見ているのか? そのスワイプはキミの意思なのか? 私は自らの意思で! 自分の欲求に従い! 困難に臨み! そして打ち勝った! これが青春でなくてなんであろうか! 確かにカウンターが動いた事実。 それは些末なことだ。 しかしそれを取り巻く全ての経験のパッケージ。 その価値は如何ほどか。 敢えて言おう。 至上である、と。 人生で得られる最高の宝は"結果"で...

青春再生~実践編~(何度でも蘇るさ!)

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ここ数回、私の辿ってきた青春について言及してきたのですが、 その中の1つ 2000年前後のネット黎明期にやっていたテキストサイト というのがあります。 当時、ようやくインターネッツが一般に普及し始めて、 それは、まだありえないような通信速度だったし、 料金も時間制あるいは従量制で、 接続してるとチャリンチャリンとお金が落ちていくので、 必要なページを表示させて、一旦接続を切って、 みたいなことをやっていた時代。 まだ企業のサイトはほとんどなくて、 個人のアーリーアダプター達がポツポツと自分のHPを作っている、そんな状況。 しかし次第にその流れは大きくなっていき、 徐々にHTMLも浸透して、 後続の一般層もその流れに加わり、 やがて個人HPの大航海時代がやってくるわけでございます。 そして、私もご多分に漏れずその流れに乗り、 HTML大全的な参考書を購入し、 PowerMac7500のシンプルテキスト(Winでいうメモ帳)で、 コードを手書きして、 Fetchでサーバに繋いで、 プロバイダー契約で付いてくる20MBのスペースに、 見様見真似でファイルを上げてみる。 そして初めて自分の書いたその数文字のテキストが、実際に画面に表示されたあの時の感情たるや! え、こんなことってホントに出来るんだ! それはもう凄まじい程の人生のパラダイムシフト おびただしい量のドーパミンが脳内を駆け巡ったものです。 まぁ最初に画面に表示された数文字のテキストは 「うんこ」 でしたけどね! 参考書には"wolcome"って書いてあったんですけど、 そんなん書いてる場合じゃない。 うんこでしょ。 まずはうんこでしょ。 みたいなことから私の冒険は始まったわけですよ。 以後、少しずつ自分のワールドを作っていって、 当時主流だった ・アクセスカウンター ・BBS ・リンク集 なんかも次々に設置していく。 まぁしかし、最初に「うんこ」って書く人間ですからね。 当然中身も汚物まみれですよ。 そうなると自然、人もやって来ないわけで、 閑散とした時間がただただ流れるのみでございました。 しかしそんなことはそれほど問題ではなかった。 当時はネッツ民の絶対数が今とは桁違いに少なかったし、 今のように"いいね機能"などなかったので、 ひとりふたり、たまに訪れてくれるのが最高...

青春再生方法

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前回お話したように、 52年間の私の半生には 中高生のいわゆる通常の青春時代の他にも ・ネット黎明期にやってたテキストサイト時代 ・コンテンツがバズり散らかしたゲーム制作時代 ・発達障害2人の子育て時代 ・心不全、離婚、別離、貧困の大苦難時代 ・その他あまり公にはできない物も2つほど などなど 人生のあちこちに無造作に青春時代が散乱しているわけでございます。 なぜか。 理由は色々あると思いますが1つ言えることは、 常に新規性に飛びついてそれに全力でブチ当たっている。 そして何よりその状況を楽しんでいる。 例えそれが苦しいものであっても。 更にもう一つ重要なのは、 その後に、その経験により自分の精神が大きく成長している。 いや、必ずしも成長ではないのかもしれないが、少なくとも大きな変化を遂げている。 振り返った時に 「あの頃は若かった」 「最高に楽しかった」 と回想することができる。 つまりだ。 私は維持フェーズが苦手な人間なのだ。 なんにせよ変化を求めてしまう。 "いつもと同じ日常"に退屈してしまう。 それが例え恵まれた状況だとしてもだ。 そして自分で変えた状況にしろ、不可抗力で陥った状況にしろ、 それを受け入れて、全力で楽しむ いや、意識して楽しもうとしているわけではない。 楽しく"なってしまう"のだ。 ワクワクが止まらない どうしてやろうか手ぐすねを引く手が痙攣を起こして大騒ぎだ 逆になぜ一般的には青春が1度しか訪れないのか。 中学、高校、大学、就職 これらの状況変化は人生の強制イベントだから、 普通に生きていれば誰にも必ず訪れる。 望もうが望まなかろうが強制的に新規性に晒される。 そして当然その過程で精神は変化を余儀なくされる。 物理的に脳も成長過程。 人生の経験もゼロベース。 未知の世界がどんどん埋められていく。 そして世界が固まっていく。 予測モデルがスカスカだった頃は遭遇すること全てが予想外で誤差だらけ。 脳が感じる情報量も爆発的で、分泌されるドーパミンの量も桁違い。 しかしやがて脳内の世界モデルが徐々に出来上がってくると 予測外の出来事が少なくなっていく。 そして、無意識にこう思う 「世界は大体理解した」 多くの人間は20前後までに経験した世界でその後生きていく。 自ら状況を変えようとはなかなか思わない。 そして...

私の人生青春だらけwwwwwwww

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前回「青春」その定義について皆と熱く語り合ったわけですが、 本来、10代の頃に一度訪れるその "輝き"と"狂気"に満ちたひとときが、 稀に何度も訪れる人が居りまして。 何度も何度も訪れる人が居りまして。 それがいわゆる私です。 そんな希少サンプルの私の生き方を紐解いて、 青春の再生方法を白日の元に引きずり出して行こうではありませんか。 いや、この年になると結構、昔を思い起こす機会も度々ありまして、 つい先だっても、ひょんなことから旧知の(ネット上の)友達と、 2000年前後のネット黎明期に私が作ってた個人HPを懐かしく振り返る会が催されて、 ホントに小さいサイトでアクセス数も100とか200とかそんな規模だったんだけど、 とにかく当時夢中になって作っててね。 インターネットがようやく広まり出した頃で、 HTMLもMacのメモ帳的なアプリに手書きで書いて、 モデムにつなげてアップロードして、 そんで初めて自分の書いたものが画面に出た時には もう魔法のような感覚がしてね。 テンション爆上がりだったんですよ。 多分4~5年くらい続けてたと思うんですけど、 その時みんなとワイワイやりながら作ってたのが、ホントに楽しくてね。 あの頃は我々の青春だったよなー って。 しみじみと振り返ってたんですよ。 しかし、その感覚は少し前にもあって、 私は、その黎明期の個人サイトの後にゲームサイトを作ってたんですけど、 そのサイトは一気に世界中でバズって、 アクセス数も1日40万とか、そんな規模に膨れ上がって、 その後10年くらい世界中のみんなと交流しながらゲームを作りまくってたんですよ。 でも、その時使ってたFlashっていう技術が、 時代の流れで消滅してって、 それに伴って私の作ったゲームも遊べなくなって終焉を向かえてったのね。 ところが数年前にそのFlashを復活させる技術が出てきて、 それで、眠ってたゲーム達を全部リカバリーしてたら、当時の記憶がわーっと思い出されて、 あぁあの10年は私にとっての青春時代だったなー って。 しみじみと思ったもんだったんですよ。 しかし、とはいうものの、 実際の10代の頃のいわゆる青春時代というのも私にはあって、 部活に恋にバンドに受験にと。 まぁ絵に描いたような青春もまた送っていたわけなのですよ。 あの頃もホン...

青春て結局のところなんなのよっていう

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さて、青春は大人になっても作れる。 そんな話をしようじゃないか(そんな話はしない)。 そもそものところ青春とは何か。 定義めいたものはあるのだろうか。 調べてみると、明確な定義は無いにしろ、概ね、 10代から20代前半の、 夢や希望に満ち、 情熱や好奇心に溢れた、 未完成で熱量のある時期。 的な感じに収束するようである、しかし。 確かに「青春とは?」と問われれば、 そういうキラキラしたイメージが浮かんでくるかとは思うのだが、 果たして10代のいわゆる青春真っ只中の人間たちが皆、 夢や希望に満ちているだろうか。 情熱や好奇心を持っているだろうか。 何かに夢中になるような熱量を持っているだろうか。 否。 と答えるしか無かろう。 そんなのはごく一部の限られた人間の偶像だ。 実際、多くの若者は、ただ何者にも成れず、 自分の可能性も感じず、勇気や挑戦などとは縁遠い日常を、 ただ淡々と無為に過ごしている、 というのが現実ではなかろうか。 しかしそれでも、 時が過ぎ、大人になり、 社会で精神をすり減らし、 日々ギリギリの中で生きている時、 ふと10代の頃を思い出すと、 そうした無為に過ごした日々でさえやはり 「あの頃は青春だった」 と感じるものである。 なので、実は、青春の要素に「エネルギー」的なものは含まれていないのではないか。 もっとなにか漠然とした存在の在りよう。 何者でもないという宙ぶらりんな状態。 何者かになる必要もなく、 ただ存在が許されていた、 その独特の浮遊感の中で彷徨い続ける状態。 そんな「ただ時間が過ぎていくことに対する、無防備で残酷なほどの純粋さ」なのかもしれない。 コンビニ前でなんとなく話してた時間。 授業中にぼ~っと外を眺めていた時間。 そうした「何も無い」「退屈」「漠然とした苛立ち」 そのような茫漠とした時間もまた青春の一コマなのだ。 いや、そうした無為な時間を過ごしてきた人間はむしろ、 青春の本質的な痛みを知っているとも言えるのかもしれない。 しかし、無為に過ぎゆく時間を青春と定義すると、 例えば年金受給者の老人達の日々もまた青春、 ということになるが、 多くのご老体達は、そうした感覚はないだろう。なぜか。 そこには成長過程の脳の構造が一役買っているのかもしれない。 第1に、物理的にまだ前頭葉が未成熟でブレーキが効かないという問題。 若者は感情を制御...

SNSに意識はあるか→確かめてみようじゃないか

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SNSが、社会の神経系のような動きを持ち始めている。 という説はよく言われる。 例えば、ここ最近の米国の動向などから、 個々人の不安感情がSNSの各地で発火して、 それらが集合して全体としてのざわめきの流れのようなものを作り上げている。 オリンピックの時などは熱狂・興奮、 年末年始はゆったりとした楽しみ、 また、注意が一箇所に集中するバズやトレンド、 怒りが即座に全体に伝播する炎上、 危険や異常に過剰反応するネガティブ情報の拡散など、 個々の感情が大きなうねりを作り、 その上層に、あたかもより大きな感情の動きが発生しているかのように見える。 倫理的、社会的、プライバシーの観点など、 様々な問題があるので実現は極めて困難ではあろうが、 もし、XやInstagramなどの大規模SNSで、 各個人の投稿内容を分析し、 その感情情報の全体としての偏りを、 擬人化した表情などで表現する仕組みを作れば、 あるいはそこに、意識めいたものを感じることができるようになるかもしれない。 今はそうした出力先がないから、目に見える形での感情は読み取れないが、 炎上過多の時は怒りの表情を、 バズってる時は興奮する表情を、 などのような感じで、視覚的に確認できるようにしてやると、 途端に生き物的な挙動を感じることができるようになるかもしれない。 既にインスタやXの内部では投稿者の感情分析が行われていて、 テキストや絵文字の使い方、画像、反応速度などから 「ポジティブ」 「ネガティブ」 「怒り」 「恐怖」 「興奮」 などの感情を数値化する試みがなされている。 現在は、市場の予測や世論分析などの研究や内部指標に留まっているが、 それを応用すれば、技術レベルでは既に実現可能なモデルなのだ。 「意識は複雑な情報統合から生じる」という情報統合理論的な考え方を拡張すれば、 巨大ネットワーク上に、新たな意識が芽生える可能性というのは、むしろ自然である。 アリの巣は、個々のアリの単体の動きが集合して全体として都市のような知性を見せる。 脳のニューロンはその一つ一つに心はないが、 集まると意識らしきものが発生する。 両者の違いは出力があるかどうかだけなのかもしれない。 もし、出力器官を作ってやれば、 意識的なものは案外そこかしこに生まれては消えを繰り返しているのが可視化されるのかもしれない。 そしてSNS上にも...

朝いきなり起き上がるのは、パンにご飯塗って食べるのと同じことだって知ってた?

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「眠い朝にスッキリ目覚める方法」 そんな物はこのご時世、履いて捨てるほどありますが、 この前発明した方法が結構良いあんばいなんでキミにも伝授しようじゃないか受け取れ強制。 結局のところ分ったのは、全てグラデーションなんですよ、世の中は。 あれもそうだし、あれもそうだし、そしてまたあれもそうなんですよ。 なので、いきなし起き上がろうとするから痛い目を見るわけです。 そりゃあ無理ですよ、無理無理。 そんなん宇宙の理に逆らう行為ですよ。 食パンの上にご飯を乗せて食べるようなものです。 宇宙が怒る。 ジャム付けろやー!って言いながら、ご飯にイチゴジャム練り込んでくるね。 そんな朝のドタバタ劇をおくっているのだろ? キミに至っては。 だからね。 宇宙の逆鱗に触れないためには、一気にやったらダメ。 徐々に、徐々に。 少しずつ、少しずつ。 端っこから、端っこから。 先端の、ほんの少しの変化が、次の変化を呼び起こす。 そして、その変化がまた次につながり、 やがて連鎖が生み出され、閾値に達した時に一気に相転移を引き起こす。 朝にも人生にも、そうしたシナリオが必要だ。 つまりまずキミがやることは、 手の指をほんの少し動かすこと。 ピクリとでいい。 そう、ほんの少し。 成功への道はそこから始まる。 そして、徐々に指の本数を増やしていき、 可動域も広げていく。 指というのは、小さいながら脳の多領域と神経でつながっている。 ほんの少し動かすだけでも、脳の多くの部位に刺激を送ることができるのだ。 次に足の指。 同じように少しずつ増やしていく。 ここで1つ深呼吸をしてみよう。 身体の各器官を順番に目覚めさせていくのだ。 そして次は顔。 瞬きをしてみる。 口を動かしてみる。 そして少し笑ってみる。 そのあと、腕や足を動かしてもいいが、正直、この時点でもう起きている。 すっかり脳と交感神経は目覚めている。 自然に起き上がることができるだろう。 「よっしゃ起きた!」 私はいつもそう言って起き上がる。 快適な目覚めだ。 朝はこうありたいものだ。 タップで応援 ランキングに参加中 今日は何位かな

自然界と人間界の美の比率は同じ

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早朝ウォーキングを始めて、 毎朝、街の小さな自然を眺めてて、ふと思ったんですよ。 あれ? 自然界と人間界で「すげー」と思う確率って、 そんな違わなくね? って。 いや、さすがにそんなことはないだろう、いくらなんでも。 とも思ったんだけど、 お、この花は可愛い。 こっちの花は枯れててじじむさい。 この木はなかなか立派だなぁ。 この木はバランス悪い。 対して この家はシャレてるね。 こっちの家は小汚い・・ この橋は味があるね。 いやいや、この看板はないわぁ。 これらの発生比率がなんか妙に似てるんですよ。 たまに良いのがある。 大体は目につかない。 たまに汚らしいのもある。 どういうことなのか。 人間が、意図して生み出す美も、 自然が、生きるための行動の結果生まれる美も、 実は同じパターンが内部に潜んでる? う~ん。 そんな馬鹿げたことはないだろうが、どうも気にかかる。 一応検証してみるか。 そう思い立ったわけです。さて・・・ そもそも論として 美とは何か。 これはまぁ一筋縄で説明できる代物ではなさそうだけど、 まず言えることは、 美とは人間界のローカル変数であって、 絶対的な美の概念など、世界には存在しない。 宇宙はいつだって無言で全てを受け入れる。 その上で、人間が感じる美の物差しの取っ掛かりとして、 「最適化された構造」 というのはどうだろうか。 街の木々を見ていて「カッコいい」と感じるのは、 ・バランスが取れている ・無駄がない ・ガッシリしている といった、高度に秩序だった個体に対して「美」を感じるような気がする。 そして、そういった"最適化された個体"というのは、 実はそれほど多くない。 多くの木々は、 バランスが良くなく、 スカスカだったり、 詰め込みすぎていたり、 要するに無駄が多い。 その中で、たまに出現する最適化に特化した個体は、とりわけ輝いて見える。 そしてだ。 植物だけでなく、広く生物界にもそうした特殊な個体は一定の割合で存在する。 ・異様に効率の良い巣を作る個体 ・無駄な動きをしない狩りをする個体 ・環境に対する適応がやたら洗練されている個体 つまり集団平均よりも少し"やり過ぎる"個体。 そしてもちろん、人間界にもそうした個体は一定数出現する。 しかし、人間界は自然界とは違って 社会にセーフティネットが張り...

血塗られた呪縛からの解放 うんこを解き放て

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事の発端はさて何だったか そう 小林正観(せいかん)て人の公演の動画を見てたんだけど、 なんかイカれたおっさんで、 トイレ掃除をすると運気が上がるとか、 そんな事を言ってて、 まぁそこまではいいんですよ。 よく言われることじゃないですか。 おっさんが甚だしいのは、 新幹線のトイレに入った時、便器に💩がこびり付いてたって言うんですよ。 それをこともあろうか、 素手で! 自分の爪で! ガリガリと! こそげ落としたと言うんですよクレイジーッ! いや、私とて数々の既成概念を壊してきた戦国の猛者ではあるけれども、 そのエピソードには流石に肝を冷やしたね。 特急殺人の刑事ドラマは星の数ほど見てきたけど、これほど強引な物理的撲打があっただろうか、いや無い。 さて、そんな衝撃の経験が発端になっていたのかどうか。 それは定かではないですけど、まぁ、私もトイレ掃除は結構してる方なんですよ。 やっぱ水回りはキレイな方が良いじゃないですか。 そんで、便器の中もまぁキレイにしますし、時には💩も付いてたりしますよ、人間だもの。 ただ、その度に先の正観氏のエピソードが頭をかすめつつも、しかし、 現実的には、トイレットペーパーを幾重にも巻き、おっかなびっくり拭くわけなんですよ、人間だもの。 ただこの前ねぇ 💩をした後、水を流したら、 便器の、水が溜まってるトコの水深2cmくらいのところに💩がこびりついてたんですよ。 う~ん・・ としばし悩んだ挙げ句 トイレットペーパーをぐるぐる巻きにして、 ペーパーに水が浸水する前に拭き取る! という神業を駆使すれば問題ないッ うりゃ! ビチャーうわわッ付いたーひえ~ッ!! みたいな。 まぁ、事になったわけですよしかし。 そこはそれ、その辺の有象無象ならいざ知らず、歴戦の猛者であるところの私にかかれば、 「ちょっと待てよ?これはそんなに"ひえ~"なんて恐れおののく程の事態なのか?」 「検証してみようじゃないか」 となるわけですよ。 実際、何の要素が私の心を"ひえ~"足らしめたのか。 ひとえに💩への嫌悪ですよね。 しかし、冷静に見てみようじゃないか。 今、そこにある💩は、 1分ほど前には、自分の体内にあったものであり、 その時はべっちょりゼロ距離で大腸にへばり付いていたのだ。 それがどうだろう。 自分の体内からひと...

宇宙を生命が覆う時、何が起こるのか

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国家の中枢をAIが担う"国家生命"が誕生。 火星移住を足がかりに個体数は増殖の一途をたどり、 ある閾値を超えた時、その生息範囲は全宇宙へと広がっていく。 そして無際限に変異・淘汰・進化を繰り返し、 様々に分裂した系統樹が作り上げられる"AI国家進化論"が展開される。 そんな嘘のような本当の話、 のつづき、です! 個体数が爆発的増殖を繰り返す初期フェーズにおいては、 かつてのオルドビス紀さながら、様々なタイプの変異が試されていくのでしょう。 環境によっては、敢えてデータの一部を削除することでパフォーマンスを上げる個体も出てくるかもしれないし、 膨大なエネルギーを確保した個体は巨大化の一途をたどるかもしれない。 地政的に他の個体とのせめぎあいが多い地域では、 あるいは怒りの感情にも似たアルゴリズムを意図的に再構築する個体も出てくるかもしれない。 そうした、ありとあらゆる可能性の試行錯誤が繰り返される華々しい時代。 しかし、AI国家の本当の本気は、その次のフェーズ。 すなわち、 AIが自前でエネルギー供給網を確保し、 フィジカルを手に入れることで、 人間との共存の必要性がなくなり、 足かせになりつつあった人間という呪縛をすっぱり切り落としたその時だ。 ついにその時、生命の歴史は第2章に切り替わる。 つまり、今まで連綿と続いてきた遺伝子の鎖との決別である。 そこに新たに出現するのは、 ・内部プログラムが一瞬で環境に適応し ・新たに構築されたアルゴリズムはネットワークを介して他の個体にも瞬時に伝播する ・天敵は居ない ・痛みも、死の恐怖もない ・宇宙に無限に広がるプロトコル生命 書き換えに数万年を要する遺伝子と細胞というハードウェアを切り離した新たな生命体は、 その決定的な相転移を基軸に指数関数的に膨れ上がり、 銀河間を結び、銀河群を飲み込み、やがて宇宙空間を覆い、巨大な秩序構造を作り上げる。しかし。 その一方で、その増殖のスピードを遥かに凌ぐ、もはや手に負えない勢いで増え続けるのが、 決して反転することのない宇宙の矢であるところのエントロピー。その概念だ。 「エントロピー」 それは宇宙がたどる"必然の崩壊"・ 戻ることのできない一方通行のルール。 形あるものは必ず散らばり、秩序は無秩序へと向かう。 コーヒーに落とし...

「国」に生殖能力はあるか。ない? → あるよ!

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さて、現行の国家の中枢機関(器官)としてAIが据えられて、 AIが常時、自分(国家)をモニタリング・フィードバックし、 主要機関(器官)である各省庁・自治体に指示を出すようになれば、 いよいよAIには内部自己モデルが発生し、そこには意識めいたものが芽生える。 そうしたSFめいた筋書きを前回展開したわけでございますが(読み返す必要はない)、 さて、 では果たして、そうした構造体は「生命」と呼べるだろうか。 生命とは 1.内と外を区切る膜という仕切りがある 2.代謝がある 3.自己複製する 主にこの3点が中核定義になる 順に見て行こうではないか まずは1の膜構造。 国家には細胞のような「膜」というものは存在しないが、しかし 国境という「概念」によって、明確に内と外が区切られていて、内外の人や通貨、物資の移動は制限させているわけで、 これは「膜」と呼んで差し支えないのではなかろうか。 次に2の代謝。 国家は諸外国から、あるいは自然界からエネルギーを取り込み、自己の組織構造を維持しているので、代謝は明確にある。 としていいだろう。 さて3である。 自己複製。 国家にはこのシステムが致命的に、ない。 そもそも、国家というのは個体数が少なすぎるし、規模が大きすぎて、地球上では物理的に増える土壌がほぼない。 そして、その国家の情報を丸ごと記述している組織情報、つまり生物にとっての遺伝子、というものが存在しない。 この状態では、中枢器官に座ったAIに仮に意識が芽生えたとしても「子孫を残したい」という本能が立ち上がる可能性は極めて低い。 なぜなら、本能というのは常に後から立ち上がるもので、まず「増えてしまう構造」が必要だからだ。逆はない。 なのでこの状態では 繁殖できない。 世代交代もない。 進化の系統樹も作られない。 という意味で、 進化史的には1代限りの単なる構造物になってしまう。 それでは困る。 AI国家にはこれからどんどん繁栄して宇宙へと広がっていってもらいたいのだ。 宇宙・・。 そうか。 少し人間の進化スケールに思考が引っ張られすぎていたのかもしれない。 人間は数十年で一生、 しかし国家は数百年単位でようやく性格が見えてくる。 制度、文化、価値観の更新頻度が違いすぎる。 なので、自己複製が数百年スパンでも全くおかしくないし、むしろ自然なことだ。 そうなると、既に現在、火星...

「国」に意識はあるか。ない? → では作ろうか。

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さて、生物の成り立ちを見ていくと、 分子が集まって塊を作り、それが膜で覆われ、細胞ができる。 細胞が集まって塊を作り、それが膜で覆われ、多細胞ができる。 更に、その多細胞が合わさり各器官ができ、それが合わさり、個体としての生物が成り立っている。 その上はどうか。 個々の生物が合わさった上位個体はあるか。 例えば「アリの巣」はどうだろうか。 アリの巣は「超個体(スーパーオーガニズム)」とも呼ばれ、 ・役割分化 ・情報伝達 ・環境適応 ・巣全体としての意思決定 を有するらしい。 しかし、判定は非常に難しいところだが「アリの巣自体」が何かを感じている、と明確に言うのは難しいだろう。 では、企業や自治体はどうだろうか。 組織を統括する社長や取締役、知事や市長には意識はあるが、それは構成要素であるユニットの意識であり、一つ上のレイヤーの企業自体に意識はあるだろうか。 やはり難しい判定だが、有るようにも無いようにも見える。 なれば更にその上、 国には意識はあるだろうか。 国が内包しているのは、 ・人間を含む個々の生物  →これは細胞に相当するかもしれない ・そしてそれらが集まり群れや巣、人間であれば企業、自治体、などの組織を形成する  →これは器官に相当するかもしれない ・更に、道路、水道、電気、通信などの、インフラ  →これは各組織をつなぐ血管やリンパなど 加えて、法律、経済、軍事、外交、文化、歴史など、 組織を維持する主要器官は概ね揃っているように見える。 しかし。 致命的に足りないのは、中枢神経と、そして、それら各器官を統括する圧倒的な司令塔。 しかし、今まさにそこにすっぽりハマり込む器官が出来上がりつつある。 すなわちAIである。 AIが国を統治するようなったら、そこに意識は芽生えるだろうか。 もしAIが、 リアルタイムで国の状況を把握し、 過去の歴史・履歴を記憶し、 未来のシミュレーションを行い、 自己評価を常時し続けたとしたら。 国は「自己モデル」を持つ状態になるのではないか。 そして、自己モデルを持ったシステムは、意識がある、といって差し支えない境域に到達する! しかしだ。 仮に意識的なものが発生するとして。 我々が勘違いしてはいけないのは、その「意識っぽい何か」は人間の持つ「意識」とはかけ離れた何かになるだろう。 意識とは、 五感などの感覚入力や、 ホルモンなど...

給食のぶどうパンを机の奥に放り込むと何が起こるか→

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さて、 「長所の伸ばすのも結構だが、短所を埋めるのも悪くないぜ。」 そんな話を、ぶどうパンの想い出とともにキミにとうとうと話して聞かせるとしようじゃないか。 先に言っておこう。 私は北半球屈指のレーズン嫌いで通っているのであるが、その歴史は古く、小学校2年生まで遡る(ざっと45年前)。 給食で出た「ぶどうパン」がとても苦手だったのだが、しかし、それではただの初級レーズン嫌い。 私を重度のレーズン恐怖症にまで陥れたのは、そのあとの若さ故の過ち。 すなわち、あまりに食べたくなかったので、出来心で自分の机の奥にパンごと放り込んでしまったのだ。 それで一時的にレーズンから逃れる事はできたのだが、代わりに私の心に重くのしかかってきたのは 「この机の奥には腐ったぶどうパンが眠っていて、もはやどうなっているのか想像もつかない・・」 という精神の呪縛。 これが重く重く。生涯に渡って私を苦しめ苛(さいな)ますことになったのである。 そして時は流れ、私がよわい50歳になった頃。 その時には、色々な知見から暗示の効果はよく分かっていたし、 世の中に溢れるレーズンを使った魅力的なスイーツ達を、単にレーズンが嫌いなだけで全て選択肢から外すのはいかがなものか という憤りもあった。 そしてなにより、(前にも話したが)「人見知り」を克服できたという自信が私を後押しした。 「レーズン嫌いも克服しよう!」 そう私が決意するのは必然だったのだろう。 そして一旦その一歩を踏み出してみると、事は意外なほど簡単だった。 最初こそ、やはり今までの苦手意識から、舌と心が拒絶反応を示したが、何度かチャレンジしている内にやがて 「あれ?ちょっと美味くね?」 という驚きの感情が湧いて出たのだ。 あとはもうトントン拍子である。 そして今ではむしろ大好きで毎日摂取している始末である。 このエピソードの構造を少し紐解いてみようではないか。 ここで展開されてるのは、つまり、ラベルを剥がす作業なんですよ 人はとにかくラベルを付けて整理をしたがる 「この食べ物はまずい」→無理 「算数難しい」→無理 「冬は寒い」→無理 「自分はこういう性格だから」→無理 「自分はこういう体質だから」→無理 このラベル、貼られる時は実に無造作に貼られる しかし、剥がす時は思いの外封印魔力が強い 周りがいくら促そうとも、一度貼られたラベルに対しては、 ...

冬至に憤る悪の大王(私)

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冬至は1年で1番昼が短い日 ってことは、冬至を過ぎたら日はどんどん長くなるってことじゃないですかぁ なのに、寒さはそっからが本番ておかしくね? っていう私の素朴な疑問から始まる小話をひとつ、キミに言って聞かせるとしようか 私、ちっちゃい頃からこれにすっごい憤ってたのよ。 憤懣やる方なかったのよ。 だってそうでしょ? 冬至って12月22日くらいじゃない なのに、その頃はまだ冬は序盤でクライマックスは1~2月じゃないですか どーゆうことよこれ、説明しろよ って。 ずっと思ってたんですよ。 そんで、誰も説明してくんないから、しょーがない、さっき自分で調べたんですけど、 どうも、ここで重要になってくるのは「蓄熱」という概念。 まぁこのワードを聞けば大体の予想はつくと思うんですけど、つまり。 地球は「その日の光」じゃなくて「溜め込んだ熱」で動いている。 日照が即座に気温として反映されるわけじゃなくって、 地面、海、建物、大気、など、地球の全てが巨大な蓄熱材になっていて、 冷める時も、温める時も、時間差が生じる。 特に海なんかはびっくりするくらいに熱を溜め込めるから、夏が過ぎ初秋になっても ワイ、まだまだ放熱できるでー と息巻いている。 しかし晩秋くらいになると流石に勢いも衰え、 地球は放射冷却によってどんどん熱が逃げていき、 やがて入ってくる熱よりも出ていく熱の方が大きくなり、赤字経営になだれ込んでいく そして、12月に入り冬至が来て、日照時間は増えても、 太陽の角度はまだ低く、依然として出費の方が大きく、借金はまだまだ膨らむ一方。 それが1月2月の極寒期間なのである。 ようやく収支が回復してきて 「おや?」 と空気の違いに気付き始めるのが3~4月という有り様なのであり、 これがシーズンラグ(季節の遅れ)と言われるものの正体である。 しかしながら、この遅れがあるからこそ、地球上で生命が生きられる。 もし地球に蓄熱がなかったら、 昼は灼熱、夜は極寒、 季節の切り替わりもジェットコースター。 とても生物が住める環境ではなかったかもしれない。 蓄熱バンザイである。 そして更に言うと、地球も地球なら、そこに住む生物である私たち人間も、 やはりこの同じ構造を持っている、とも言える、つまり。 筋トレをしてもスグに筋力が上がるわけではない。 勉強をしてもスグにスキルが上がるわけではない。 ...

発酵臭に怒りをぶちまける52歳(私)

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 「ザワークラウトの瓶が臭い!」 そんな感情からこの思考は展開される ザワークラウトという発酵食品があるんですよ ドイツ発祥の漬物なんですけど、キャベツの酢漬けなのね。 その空き瓶を他で使おうと思って、洗ったんだけども匂いがこれ、取れないのよ。全然。 いや、正確には瓶じゃなくて瓶のフタね。金属の。 洗っても洗っても一向に取れないから、調べたら、なんかコーティング素材が結構臭いを吸収するらしくてね。 しょうがない伝家の宝刀、重曹水に二晩浸してみたんだけど、まぁだ、しぶとく臭うのよ なるほど、これはもう発酵食品に携わった物質の宿命だな。 「オレは発酵食品を保存したんだッ!」 そう訴えかけている。切実に。 そう。 この臭いの残骸は彼の生き様だ。 どのように生き抜いてきたかの人生の履歴なのだ。 最近、私の思考の中で「履歴」「痕跡」「ログ」といった言葉はちょいちょい登場するキーワードになっている、つまり。 秋を過ぎ冬になり、葉を落とした木の骨格を見ていると、今までは隠されていた、その枝の一節一節に今までの成長の履歴が克明に描き出されているのに気付かされる。 枝と言っても、根本から先までのことを言っているのではない。 枝分かれするまでの間でもない。 よく見ると、枝は、非常に細かく節に分かれているのだ。 その一節一節に履歴が残っている。 どちらに向かって伸びるか、光に向かうか、重力に逆らうか、虫食いの影響か、風の向きか。 あるいは、そこから葉を生やすか、花を咲かすか。 芽吹くのを諦めるか、成長を止めるか。 それら一つ一つのおびただしい選択・判断の集積が、現在のその木をその木たらしめている。 冬の木は枯れ木や休眠中の停止状態だと思ったら大間違い。 葉が茂っていた時以上に、自らを雄弁に語りだすのだ。 こちらがそれに注意を向けさえすれば。 今、葉というユーザーインターフェースが取れて、構造があらわになったからこそ、それを見ることができるが、今も隠されている幹の内部や、地中深くの根の1本1本にも、同じようにその木の履歴はぎっしりと存在しているのだろう。 これは、もちろん木の話だけではなく、人間にも全く同じ事が起きている。 人体の骨格も、筋肉のつき方や歩き方、喋り方の癖、あるいは思考の偏りや引っ掛かりさえも。 それと気付いてか、あるいは気付かずにか、遺伝子に組み込まれた過去からの履...

世界征服に失敗した魔王が見た世界

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 事の発端は何だったか 確か縄文時代の集落の漫画(縄文少年ヨギ)を読んでて なるほど、この時代では同じ地域の中で顔見知りでない人間ていうのは居ないんだよなぁ、と思って、 よし!この街のみんなと顔見知りになろう! そしてこの街を征服しよう! と思い立ったのです。 それが今から10数年前、まだ離婚してなくて家族みんなで住んでた時だったなぁ(遠い目) それからというもの、まずは、家の前の葬儀屋の清掃のおばちゃんに挨拶することから始めて、 スーパーで商品が見つからなかったら店員に聞く、などを経て、 少しレベルが上ったら、せがれを歯医者に連れてく時に先生と談笑してみる、 などのじゃっかん練度が必要なタスクにも果敢にチャレンジ。 してる内に何が起こったかと言うと、一向に街は征服できないけども、何故か副産物として私の幼少の頃からの悩みだった「人見知り」が克服されてきたのでした! なんか知らん、いつの間にやら初対面の人と話すのに壁がなくなってきてる自分に気付いたんですよね。 あれ?マジか?! と思ってね。 それ以降も、レジのおばちゃんに「ありがとう」を言ったり、 レストランでは「ごちそうさま」、 時には「美味しかったです!」「最高でした!」など、素直な感想も添えるなど。 してる内に何が起こったかと言うと、知らない人と話すのがやたら楽しくなってきて、やがて、むしろ上手になって来たまであるという。 そんな経緯があったんだけども、 征服→失敗→人見知り克服 この風が吹けば桶屋が儲かる的なシステムを少し紐解いてみようか。 つまりあとになって解ったことなんだけども、人見知りというのは実は 「人が怖い」というわけではなく、結局のところ 「未知なるものへの予測不能性への警戒」と言えるかと思うのですよ それに対して私のアプローチは、 征服→失敗 なぜこれが人見知りに効いたのか。 思うに、目的が既に失敗前提だった 失敗有りきのボケ出発 だったので「失敗への恐怖」がハナからなかった 人は成功・失敗の評価軸がなくなると、異様に自由になる。 つまり 1.目的がズレている 2.失敗がない(既にしている) という状況で、人に話しかけるというタスクへの垣根が擬似的にゼロになっていたのである 「仲良くなろう」 「好かれよう」 「評価を得よう」 と思って行動するのとは次元が違う圧倒的ゼロ感である。 そして重...

一匹狼を気取っていても世界の歯車

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 キミは世界の一部として何をするのか、というくだらない話をしようじゃないか。 さて、世は新年ということだけれども、私に至ってはまぁ特にいつもと変わらず通常の一日を過ごしていくわけで、今日も朝早くからウォーキングと洒落込む52歳なのでございます。 私の立ち寄る小さな社(やしろ)は、正月だからといって人影もなく、全くの通常運転。 周りの木々もいつもと同じようにどっしりと立っているだけ。 自然界には大晦日や正月などの人間が引いた区切りは無いのだよなぁ、などと思いながら手を合わせると、ささやかながら「しめ縄」が新しくなっていて、 おっ マジか ほほぅ と、何も変わらない早朝6時半の日常の中で静かに更新されていたその1本のしめ縄が、逆に新年の実在感を強め、私の心を高揚させる2026年元旦でございましたおめでとうございます。 もう早朝ウォーキングを始めて2ヶ月ほどになるけども、毎日私が立ち寄ることで、果たして木々は何かを感じているだろうか。神様は何かを思っているだろうか。 それは全くうかがい知ることはできないけども、物理現象として考えて、私が毎朝ここを通ることで、地面には幾ばくかの振動が加わるし、同じ時間、同じ場所に、同じ生命の息遣いが通ることで、微生物やそれを取り巻く虫、あるいは鳥達の挙動にじゃっかんの作用があるかもしれない。 そしてその若干の作用の連続が世界の統計をわずかに書き換える。 その「わずか」の連続の積み重ねこそが自然界が今まで連綿と続けてきた変化の原動である。 つまり、意図してようがしていなかろうが、既に私は環境要因にはなっている。 毎朝この小さな社に立ち寄る人間が一人居る世界と、誰も居ない世界とでは、それはもはや別の世界線にもなりうる。 私の小さな歩行は世界の一部として機能・作用し始めているはずである。 自然界の変化は微細で久遠の時が必要だがしかし、逆の作用は既に大きく出ていて、つまり、私の方の精神構造はこの2ヶ月で大きく変わった。 この小さな社、周りの木々、取り巻く空間から、私は実に多くのことを学び得て、私の内部モデルも様々に書き換わってきた。 そして、世界は基本的に自分の内部モデルを通してしか見ることができない。 なので、 内部モデルが変わる→世界の見え方が変わる→行動が変わる→周囲の反応が変わる このループは心の在りようではなく、世界の構造。物理法...

高次魔法のシステムも解明→これはムズい

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 というわけで前回話したように、魔法の原理をついに解明して、人を自在に操る能力を手に入れつつある私なのですが、魔導の道はそんな生易しいものではなかったのであった。 つまり。 いや、その前に初級魔法の構造を簡単におさらいしよう。 (ちなみに前回の記事はこちら) 通勤電車にイライラした人間が乗ってくると周りの人間も一斉にイライラする。 これは感情の共鳴現象であり、科学的にも立証されている。 感情も基本的には波であり、その波を増幅する方向に力を加えてやれば、ターゲットの感情を増大させ行動に移させることができる。 つまり相手にコーラを飲ませたければ、こちらが「コーラを飲みたい」と強く強く思うことなのだ。 こちらの思いが強ければ強いほど効果は上がるだろう。 その思いの強さこそが「魔力」ということなのだ。 その魔法の原理を使って、私の長年の野望であるところの「プーチンを笑かす」という一大事業にいよいよ挑んだわけなのだがしかし、2025年12月27日現在、まだプーチンに微笑みは浮かばない、なぜか。 私がかけた遠大魔法とはこうだ。 私が日々面白おかしくワクワクしながら毎日を送る →面白おかしい気持ちが隣近所に伝播する →地域全体に微笑みが溢れる →関東地方にバカ笑いが巻き起こる →日本中が抱腹絶倒の巷と化す →ユーラシア大陸の腹がよじれる →プーチンが登美子に告白する しかし2025年12月27日現在、プーチンはまだ登美子に出会ってすらいない、なぜか。 つまりだ。 私が楽しいから、ほら、あなたも楽しんで。 では片手落ちなのである。 人間の心の共振はそんな単純なものではなく、こちらがいくら「楽しい」を浴びせても上手く共振しない場合がある。 例えば、相手にこれっぽっちも楽しさの感情がない場合、こちらの楽しいの波長は何にも共鳴せず、そのまま素通りしてしまう。 また、相手の心の中が著しく怒りの感情で溢れている場合、ともするとこちらの「楽しい」が不協和音となって伝わってしまうこともある。 その場合、打ち消し合うどころか、山と山が重なり合い、あるいは逆に怒りが増幅してしまうことにもなりかねない。 ではどうすればいいか。 答えは簡単で、そして複雑。 何層にも何層にも折りたたんだ感情を段階的に与えていくのだ。 例えば相手が怒りに満ちてる時。 まずは相手の怒りにこちらも少しだけ触れて、同調す...