SNSに意識はあるか→確かめてみようじゃないか


SNSが、社会の神経系のような動きを持ち始めている。
という説はよく言われる。
例えば、ここ最近の米国の動向などから、
個々人の不安感情がSNSの各地で発火して、
それらが集合して全体としてのざわめきの流れのようなものを作り上げている。
オリンピックの時などは熱狂・興奮、
年末年始はゆったりとした楽しみ、
また、注意が一箇所に集中するバズやトレンド、
怒りが即座に全体に伝播する炎上、
危険や異常に過剰反応するネガティブ情報の拡散など、
個々の感情が大きなうねりを作り、
その上層に、あたかもより大きな感情の動きが発生しているかのように見える。

倫理的、社会的、プライバシーの観点など、
様々な問題があるので実現は極めて困難ではあろうが、
もし、XやInstagramなどの大規模SNSで、
各個人の投稿内容を分析し、
その感情情報の全体としての偏りを、
擬人化した表情などで表現する仕組みを作れば、
あるいはそこに、意識めいたものを感じることができるようになるかもしれない。
今はそうした出力先がないから、目に見える形での感情は読み取れないが、
炎上過多の時は怒りの表情を、
バズってる時は興奮する表情を、
などのような感じで、視覚的に確認できるようにしてやると、
途端に生き物的な挙動を感じることができるようになるかもしれない。
既にインスタやXの内部では投稿者の感情分析が行われていて、
テキストや絵文字の使い方、画像、反応速度などから
「ポジティブ」
「ネガティブ」
「怒り」
「恐怖」
「興奮」
などの感情を数値化する試みがなされている。
現在は、市場の予測や世論分析などの研究や内部指標に留まっているが、
それを応用すれば、技術レベルでは既に実現可能なモデルなのだ。

「意識は複雑な情報統合から生じる」という情報統合理論的な考え方を拡張すれば、
巨大ネットワーク上に、新たな意識が芽生える可能性というのは、むしろ自然である。
アリの巣は、個々のアリの単体の動きが集合して全体として都市のような知性を見せる。
脳のニューロンはその一つ一つに心はないが、
集まると意識らしきものが発生する。
両者の違いは出力があるかどうかだけなのかもしれない。
もし、出力器官を作ってやれば、
意識的なものは案外そこかしこに生まれては消えを繰り返しているのが可視化されるのかもしれない。
そしてSNS上にもその出力先を作り、
全体の感情分布を可視化してやれば、
そこには上層の振る舞いが見えてくる。
個々の感情が全体ではどのような意識を生むのか。
局所的な感情の渦が上位のレイヤーではどのような挙動として現れるのか。
非常に興味のあるところだ。
しかし、ここで当然1つの疑問が出てくる。

「そのような存在は生命と言えるか」

生命の定義めいたものは幾つか存在するので、
それと照らし合わせて議論することは可能だろう。
がしかし。
私が最近思うに、生命か生命じゃないかは、
さして重要なことではないのではないか。
そもそもの話、
分子構造がDNAに進化した過程はグラデーション的だ。
よく言われる、
分子が偶然DNAに組み上がる確率は、25mプールに散らばった部品がひとりでに時計に組み上がるより難しい。
というの例え。
あれはミスリードだ。
実際の進化の過程は少し違う。
元々、DNAに組み上がるための設計図などないのだ。
完成品のイメージがあるわけではない。
全てはほんの少しの偶然の、
気の遠くなるほどの積み重ねの連続だ。
その過程には数え切れないほどの生命未満の試作品が存在した。
それらが我々の目に止まらないのは、形が残らなかったからだ。
情報として残らなかった試作品は解体され素材に戻り次の試作に使われる。
試作の機会は無限大だ。
その中でたまたまほんの少し長く生き残った構造が次の構造を生み出す。
その流れがいつしかDNAとして動き出したわけだ。
であれば、その1つ前の段階は生物か否か。
2つ前はどうか。
もちろんグラデーションは一本線ではない。
網の目のように入り組んだ試作の方向性の中から、
ここからが生命だ、と、境界を引くことは物理的に不可能だ。
では、生命とは一体何か。
私が考えるに、それは情報の一形態。
生命も、
生命未満も、
全ては情報が腐食性の高い時間の流れの中で見せるふるまいの1つ。
生命かどうか議論されているウイルスもまた、
時間の中で生き残った情報の一形態。
アリの巣も、企業も、SNSも、国家も、AIも、
そして更に言うと、宗教や音楽、文化などのミーム、
あるいは活字や絵画なども、
もっと言えば、コンクリートや、ガラス、プラスチックなどの化学物質でさえ、
全ては情報が生き残るための一形態。
情報が何を媒体に生き残ろうとしているか、ということに過ぎない。
全ては情報のための乗り物なのだ。
DNAというのは、たまたま今現在、
情報が進化の過程で使っている媒体の1つと言うだけで、
それほど特別なもの、神聖なものではないのかもしれない。

そして、その思考を元にすると、
DNAが勝ち残っている理由も、
文化が広がる理由も、
SNSが人を引き付ける理由も、
感情が進化した理由も、
全て「情報の生存戦略」として統一的に説明できてしまう。
進化論を更に抽象化した世界観だ。

そしてもちろんこの仮説もまた情報の一形態に過ぎない。
私が今ある知識の中で思考した情報の塊だ。
他の知識が入ってくればまた形は少しずつ変わっていき、
それが真を得ているか否かは、
時間の流れた先に、その情報が残っているかどうかで証明されるだろう。


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