青春て結局のところなんなのよっていう



さて、青春は大人になっても作れる。
そんな話をしようじゃないか(そんな話はしない)。

そもそものところ青春とは何か。
定義めいたものはあるのだろうか。
調べてみると、明確な定義は無いにしろ、概ね、

10代から20代前半の、
夢や希望に満ち、
情熱や好奇心に溢れた、
未完成で熱量のある時期。

的な感じに収束するようである、しかし。
確かに「青春とは?」と問われれば、
そういうキラキラしたイメージが浮かんでくるかとは思うのだが、
果たして10代のいわゆる青春真っ只中の人間たちが皆、
夢や希望に満ちているだろうか。
情熱や好奇心を持っているだろうか。
何かに夢中になるような熱量を持っているだろうか。
否。
と答えるしか無かろう。
そんなのはごく一部の限られた人間の偶像だ。
実際、多くの若者は、ただ何者にも成れず、
自分の可能性も感じず、勇気や挑戦などとは縁遠い日常を、
ただ淡々と無為に過ごしている、
というのが現実ではなかろうか。
しかしそれでも、
時が過ぎ、大人になり、
社会で精神をすり減らし、
日々ギリギリの中で生きている時、
ふと10代の頃を思い出すと、
そうした無為に過ごした日々でさえやはり
「あの頃は青春だった」
と感じるものである。
なので、実は、青春の要素に「エネルギー」的なものは含まれていないのではないか。
もっとなにか漠然とした存在の在りよう。
何者でもないという宙ぶらりんな状態。
何者かになる必要もなく、
ただ存在が許されていた、
その独特の浮遊感の中で彷徨い続ける状態。
そんな「ただ時間が過ぎていくことに対する、無防備で残酷なほどの純粋さ」なのかもしれない。
コンビニ前でなんとなく話してた時間。
授業中にぼ~っと外を眺めていた時間。
そうした「何も無い」「退屈」「漠然とした苛立ち」
そのような茫漠とした時間もまた青春の一コマなのだ。
いや、そうした無為な時間を過ごしてきた人間はむしろ、
青春の本質的な痛みを知っているとも言えるのかもしれない。

しかし、無為に過ぎゆく時間を青春と定義すると、
例えば年金受給者の老人達の日々もまた青春、
ということになるが、
多くのご老体達は、そうした感覚はないだろう。なぜか。
そこには成長過程の脳の構造が一役買っているのかもしれない。

第1に、物理的にまだ前頭葉が未成熟でブレーキが効かないという問題。
若者は感情を制御する前頭葉がまだ発達途中なために、
論理的な効率よりも、
その瞬間の生(なま)の感覚に脳が支配される。
この制御不能な"暴走する感情"が、
若き日の輝きや危うさとして記憶に刻まれるのかもしれない。

第2に、ドーパミン感受性のピーク
脳の報酬系は、一般的に20代を境に減少していく。
感受性のピークに当たる10代後半は、
情報の刺激に対して敏感に脳が反応する。
小さな事に笑い転げ、苛立ち、怒りにも点火する。
剥き出しの神経が常に世界と対峙していて、
何も無い、無為な時間でさえ、
脳内では激しく情報処理が走り、
ただ生きているだけで膨大なエネルギーが消費されている。

第3に、脳内モデルが未完成
脳は常に未来予測の処理を走らせている。
大人の脳は経験則から"世界は大体こんなもの"という予測モデルが出来上がっているが、
若者の脳はまだそのテンプレートがスカスカで、
些細なことでも脳にとっては予測誤差が激しく、
強烈な刺激として処理される。

なので、人間は長く生きれば生きるほど、
脳内で世の中の"通常"や"普通"が完成していき、
それにより予測処理が正確になっていき、
そしてやがて自動操縦になっていく。
つまり感情が死んでいくのだ。
世の中の通常が構築されていない状態では、
全て全力で情報処理し、取捨選択が行われる。
対して、予測シミュレーションの精度が上がってくると、
脳の処理を使わずに自動で行動制御系が走り出す。
考えなくても自転車に乗れる状態だ。
つまり悪く言うと、人間は生き続けるほど、ロボ化していくのだ。
幼稚園で走り回る子供たちと、
新宿駅でエスカレーターに乗る大人たちを比べたら一目瞭然だろう。
どちらがより"生きて"いるか。


しかし。

しかしだ。

そこにこそ青春を再び作り出す鍵が潜んでいるとも言えるのだ。
次回!

「私の生涯、青春だらけwwwwww」

ご期待ください!


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