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12月, 2025の投稿を表示しています

高次魔法のシステムも解明→これはムズい

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 というわけで前回話したように、魔法の原理をついに解明して、人を自在に操る能力を手に入れつつある私なのですが、魔導の道はそんな生易しいものではなかったのであった。 つまり。 いや、その前に初級魔法の構造を簡単におさらいしよう。 (ちなみに前回の記事はこちら) 通勤電車にイライラした人間が乗ってくると周りの人間も一斉にイライラする。 これは感情の共鳴現象であり、科学的にも立証されている。 感情も基本的には波であり、その波を増幅する方向に力を加えてやれば、ターゲットの感情を増大させ行動に移させることができる。 つまり相手にコーラを飲ませたければ、こちらが「コーラを飲みたい」と強く強く思うことなのだ。 こちらの思いが強ければ強いほど効果は上がるだろう。 その思いの強さこそが「魔力」ということなのだ。 その魔法の原理を使って、私の長年の野望であるところの「プーチンを笑かす」という一大事業にいよいよ挑んだわけなのだがしかし、2025年12月27日現在、まだプーチンに微笑みは浮かばない、なぜか。 私がかけた遠大魔法とはこうだ。 私が日々面白おかしくワクワクしながら毎日を送る →面白おかしい気持ちが隣近所に伝播する →地域全体に微笑みが溢れる →関東地方にバカ笑いが巻き起こる →日本中が抱腹絶倒の巷と化す →ユーラシア大陸の腹がよじれる →プーチンが登美子に告白する しかし2025年12月27日現在、プーチンはまだ登美子に出会ってすらいない、なぜか。 つまりだ。 私が楽しいから、ほら、あなたも楽しんで。 では片手落ちなのである。 人間の心の共振はそんな単純なものではなく、こちらがいくら「楽しい」を浴びせても上手く共振しない場合がある。 例えば、相手にこれっぽっちも楽しさの感情がない場合、こちらの楽しいの波長は何にも共鳴せず、そのまま素通りしてしまう。 また、相手の心の中が著しく怒りの感情で溢れている場合、ともするとこちらの「楽しい」が不協和音となって伝わってしまうこともある。 その場合、打ち消し合うどころか、山と山が重なり合い、あるいは逆に怒りが増幅してしまうことにもなりかねない。 ではどうすればいいか。 答えは簡単で、そして複雑。 何層にも何層にも折りたたんだ感情を段階的に与えていくのだ。 例えば相手が怒りに満ちてる時。 まずは相手の怒りにこちらも少しだけ触れて、同調す...

ひげを剃る。そしてゴミを拾う。→結果

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 数週間ほど遡るんだけども、いつものウォーキングルートにゴミが散乱してたのよ 恐らくはカラスがやったものじゃあないかと思うんだけど、私のお気に入りの小径(こみち)に落ちてて、結構気になったのよね。 で、次の日も同じように通ったらやっぱり同じように変わらずゴミが散乱してるわけですよ。そりゃあまぁ。 これ、今後毎日こうだと、私のテンションもダダ下がりだし、なんなら1日の流れにも支障をきたすな、と思ってね。 よっしゃ明日拾ったろと。そう思い立ったわけなのですよ。 写真では分かりづらいんですけど、結構パラパラと散乱してて、そこそこの量だったのよね。 で、次の日、ゴミ袋持って意気揚々と行ったわけなんですけど、果たしてそこにはやっぱし同じようにゴミが落ちてたんですよ。 なのでまぁそそくさとゴミをひらって袋に詰めるわけなのです、早朝に。 一人で。 誰にも見られることなく。 集めてみるとやっぱり結構な量で、しかもお菓子の空袋ばっか。 そんでゴミ袋いっぱいになって、そこでハタと気付いたんですけど、プラごみの回収おとといじゃん!っていう。 これ、一週間ウチに保管かぁ・・ まぁしょうがないか、と思い、そのまま帰って部屋の隅に一時保管。 ていうね。 でもまぁこれはあれだ。 善意とかボランティアとかそういった類いの気持ちではなく、純粋に利己行動としてやった言わば偽善行為なのですよ。 通る道が薄ら汚くて、自分が嫌だから、自己衛生のために拾ったわけなのでね。 まぁでも、世の中、偽善で良いと思うのですよ。 自分の為が、結果、地域の為にもなってて、Win-Winじゃないですか。 それでいいじゃないですか。みたいな。 ちょっと話は横道にそれるけど、全ての利他行為っていうのは、結局、煎じ詰めれば利己行為ってことなんじゃないの?って思うのよね。 例えばボランティアにしろ寄付にしろ、それは一見相手のためになってるようにも見えるけど、結局のところ、その行動をして自分が気持良いからやっているわけで、その行動することによる時間や労力、お金などの損失分と、自分の中での自尊心とか、脳内で分泌されるドーパミンの期待値などを天秤にかけて、後者の方がより比重が大きい、という計算結果が出るからやるわけじゃないですか。 それは利己行動とも言えるんじゃないですかね。 みたいなことを考えてたんですけど、更に思考を深めていく...

「50代でもモテる方法」から始まる世界の根幹への旅

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 いよいよ秋も終わり、本格的に冬到来の様相を呈してきた神奈川は辻堂なわけですが、早朝ウォーキングで訪れる神社のイチョウもすっかり葉を落とし、これからは街の木々も彩りを失いさみしい期間が続くなと、去年までの私ならそう思ってたであろうが、何故か今年は違う。 興味が変わってきたのか、去年までなら目に映りもしなかった、落葉して骨だけになったスカスカの木の姿になぜかわからないのだけど心が惹きつけられるのだ。 端的に言って「カッコいい」 そして、この前なんて特に、早朝、神社の社(やしろ)に手を合わせて、ふと見上げるとイチョウの木の梢に、登ったばかりの朝日の陽光が照らし、まさに息を呑むような神々しさ。 できれば8時間くらいかけてじっくりスケッチしたいという気持ちだったが、朝のウォーキング時間ではそんなわけにも行かず、仕方なく写真にパシャリ。 しかし案の定、家に帰って確認してみると、あの感動の1/100も再現できていなかった。 じゃっかん話は横道にそれるけども、これは以前から思っていたことで、特に雄大な自然なんかは、写真に撮ると肉眼で感じた打ち震えるような感動が全く切り取れないんですよね。 これはまぁ、いかんともしがたい腕前の問題もあるのだろうがしかし、やはり肉眼と写真では決定的な違いが幾つかあるのだと思うのですよね。 まず第一に立体視できていない。 肉眼は2つの微妙に違った角度のレンズから入ってきた情報を脳内で統合して一つの奥行きのある像にしているわけだけども、写真の場合はその奥行情報が全て消し飛んでいる。 第二に時間の流れが取り込めない。 写真はその一瞬を切り取っているいわば時間標本なわけだが、肉眼は実は焦点が合っているのはほんの狭い範囲だけでその周りは脳が勝手に補完しているに過ぎない、なので、その景色全てを把握するには、数秒~十数秒かけて視点を移動して全てを把握しなくてはならない。その時間分の体験のワンパックなのだ。 そしてもちろんのことだが、その体験は視覚だけによるものではなく、実際は五感やそれ以上の感覚を使って身体全体で感じている全身イベント。 社から見上げたイチョウの梢には、朝の冷たい空気の肌感覚や朝日の眩しさ、風の音や感触、鳥の声、見上げた首の痛み、それらがないまぜとなった一大イベントだったわけだが、写真で切り取れるのはその中の視覚情報の一部のみである。 1/...

若者は情報の海に溺れるがいい

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今日の早朝ウォーキングはちょいと足を伸ばして徒歩30程度のところにある森林公園まで行ってみた。 朝6時半の公園はひんやりと空気が冷えていて、まだ人間の侵入がない植物達の世界。 マジかよこれは樹木との会話が捗るぜーと思いつつ歩いていると視界に老人が一人。 うむ。まぁ一人くらいは居るわな。 と、少し行くとまた老人が一人。 なるほど。 そして更に行くとベンチのところでは井戸端会議に興じる老人が数人。 噴水のところでは馬鹿騒ぎする老人グループ。 老人かッ! という感じでね。 老人楽しそうだわー 何よりだわー しかしやはり年を取ると皆自然に帰るのだよなぁ 多くの経験を経て、物事の侘び寂びが理解できるようになってくるというのもあろうが、やはり、物理的に脳のスペックが落ちて先端世界の情報量に耐え切れなくなり、結果、タイムラインがスローな植物や風や水や土の世界に行き着く、というのもあるのだろう。 一方で、若さというのは今まさに咲き誇らんとするように帯域全開。 情報も刺激も可能性も、同時に大量に処理できてしまう。 それ故に溺れるし、ぶつかるし、けつまずくし、燃え広がる。 こともあろうけれどもしかし。 だからこその若さ。 風の流れや水の音、光の方向、土の湿り気、そんな微細な感覚世界は老人になってからでも十分堪能できる。 いや、老人だからこそ味わえる。 なればこそ今は。 刹那的だろうが、ドーパミンハイパーインフレだろうが、感覚麻痺だろうが、良いではないか。 走れるのであれば走ったら良いではないか。 老人になれば走りたくても走れなくなるのだ。 追いたくなっても追えなくなるのだ。 そしてやがて追わなくなり。 追いたくもなくなるのだ。 それが老いというものだ。 みたいなね。 事を考えつつ、今は情報の海と自然の流れの両極をたしなめる50代という境界にいる自分のフェーズが如何に貴重な時間なのかを再認識した次第。 早朝の霞がかった木々の間を歩きながらも、最先端テクノロジーやAI、進化論についても同時に思考できる。 内側も外側も、過去も未来も、全方位、全帯域で思考を巡らせることができる。 そんなチートフェーズ。 それが我が青春の50代。 若者よ、老人に詫びろ! 老人よ、若者に跪け! そして私はその両方を統べる!(詫びるし、跪く)

進化は螺旋

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事の発端と経緯はまた追々書いていくとしまして、先月くらいにわたくし朝散歩を始めたんですよ。 重い重い腰をようやく上げて。 ホントにしぶしぶ。 眉間にシワを寄せながら。 それがどうしたことでしょう。 今はと言うと、もう散歩に行くのが待ちきれなくて飼い主の前で喚き立てる柴犬のごとく颯爽と、そしてハツラツと、満面の笑みを浮かべて外に駆け出す毎日なのでありますよこれが。 駆け出す。 まさに文字通り駆け出してるのですよ、更にここ2~3日と来たら。 つまり散歩のはずだったのがいつの間にかランになってるのです、どうしたことでしょうかこの万年引きこもり 52歳 独身 子有り 男やもめが。 よりにもよって早朝ラン 6時半ですぜ、おやびん! まぁそんなわけでね。 ここ1ヶ月、色々あってそこに行き着いたんですけど、結果これが非常に身体と精神が整ってきているのですよ。 でもなんか、と同時に、元も子もないことに気付いてしまったんだけども、栄養管理とか、添加物を取らないとか、糖質を減らすとか、起床就寝時間を固定するとか、SNSやショート動画を見ないとか、運動を取り入れるとか、自然と触れ合うとか、そーゆうのって、現代社会では、最新の科学で解き明かした研究結果による生活サイクルって事になってるけどさぁ。 これは実は最先端を行ってるような顔をして、その実、ただ時間を遡ってるだけなんじゃね? っていう。 どれもこれも一昔前は当たり前だったことに戻っとるだけやんそれ。 っていう。 そうなるともう、発展って何? っていうことにもなってきますよね。 何が発展かっ ただ無駄に毒を撒き散らしてきただけではないのか! 結局、身体や脳に最適なのは時間を巻き戻した先にあった! てことなんだよなぁ・・とか思考を巡らせてたんだけどしかし。 だからといってじゃあ昭和が全て良かったか 戦前が全て良かったか 縄文時代が全て良かったか 狩猟採集生活が全て良かったか といったらそういうことではない。決して。 生活サイクルが時代を巻き戻っているように見えて、実はそれは単なるノスタルジーではなく再発見なのだ。 古いものをただ再現しているのではなく、科学理解を経た後にそれを使って生活様式を現代風に組み直しているのだ。 生命が別経路を辿って同じような形態に行き着く収斂進化(しゅうれんしんか)の生活文化版とも言えるかもしれない。 発展の経路...

妄想を楽しもう!

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  というわけで日々瞬間瞬間を「快」の感情で満たしていこう、それが世界と自分のWin-Winな関係だ。 と思うわけなのでございます。 自分の心持ちが愉快であれば、もちろん自分は楽しいわけだし、楽しい気分はストレスホルモンであるところのコルチゾールを減少させ、代わりにドーパミンやアドレナリン、アセチルコリン、セロトニンやオキシトシンなどの快楽物質を分泌させる。 それにより身体は整い、快調バリバリになるのは至極当然のこととして、その波長は自分の身体だけには留まらず、体外にも滲み出し、触れる人、あるいは環境などにも微細に作用してほんの少し世界が愉快になる。 そしてそれがまた巡り巡って自分へと返ってくる永久機関。 つまりまず何が大事かと言うと、世界に対する不満を口にするのではなく、自分が愉快になること。 そこから全ては始まるのだ。 外をどうこうすのではない。 自分から変わるのだ。 起点はゼロポイント。 というわけでだ。 いかにして「快」を作り出すか。 その方法はあまたあるものの、私がよくやる資源ゼロでできる愉快製造法。それが「妄想」 これは、私が心不全の手術をしたあとのことなのだが、手術の後遺症で身体と精神が極度に疲労していたことが作用したのか、夢と現実の境界がわからなくなるという特異な状態を経験したことに端を発する。 さっきあったことが夢の中の出来事だったのか、はたまた現実の出来事だったのかの区別がどうしてもつかなくなってしまったのだ。 どんなに考えてもどっちだったかわからない。 脳みそというのは面白いもので、ほんの少しの配線の狂いで夢と現実がわからなくなるのだ。 ということはだ。 逆に考えると「夢と現実に果たして違いはあるのだろうか」という考えにも至ってくるのでありますよ。それは必然的に。 ほんのちょっとの配線の違いで、どちらかわからなくなるのであれば、脳みそにとってはどちらで起こったことも現象として変わらないのではないか。 現実ではなく、脳内で起こったことでも、ドーパミンやアドレナリンなどの物質は実際分泌されるのだ。 つまり脳や身体にとって、現実だろうと妄想だろうと経験したことに変わりはないのだ。 ということは、例え夢だろうが妄想だろうが、楽しい経験をすれば脳は等しく「快」を感じるわけで、それこそが重要なのであれば、良い夢を見て起きたあとに「なんだよ夢かー、ち...