ひげを剃る。そしてゴミを拾う。→結果
数週間ほど遡るんだけども、いつものウォーキングルートにゴミが散乱してたのよ
恐らくはカラスがやったものじゃあないかと思うんだけど、私のお気に入りの小径(こみち)に落ちてて、結構気になったのよね。
で、次の日も同じように通ったらやっぱり同じように変わらずゴミが散乱してるわけですよ。そりゃあまぁ。
これ、今後毎日こうだと、私のテンションもダダ下がりだし、なんなら1日の流れにも支障をきたすな、と思ってね。
よっしゃ明日拾ったろと。そう思い立ったわけなのですよ。
写真では分かりづらいんですけど、結構パラパラと散乱してて、そこそこの量だったのよね。
で、次の日、ゴミ袋持って意気揚々と行ったわけなんですけど、果たしてそこにはやっぱし同じようにゴミが落ちてたんですよ。
なのでまぁそそくさとゴミをひらって袋に詰めるわけなのです、早朝に。 一人で。 誰にも見られることなく。
集めてみるとやっぱり結構な量で、しかもお菓子の空袋ばっか。
そんでゴミ袋いっぱいになって、そこでハタと気付いたんですけど、プラごみの回収おとといじゃん!っていう。
これ、一週間ウチに保管かぁ・・
まぁしょうがないか、と思い、そのまま帰って部屋の隅に一時保管。
ていうね。
でもまぁこれはあれだ。
善意とかボランティアとかそういった類いの気持ちではなく、純粋に利己行動としてやった言わば偽善行為なのですよ。
通る道が薄ら汚くて、自分が嫌だから、自己衛生のために拾ったわけなのでね。
まぁでも、世の中、偽善で良いと思うのですよ。
自分の為が、結果、地域の為にもなってて、Win-Winじゃないですか。
それでいいじゃないですか。みたいな。
ちょっと話は横道にそれるけど、全ての利他行為っていうのは、結局、煎じ詰めれば利己行為ってことなんじゃないの?って思うのよね。
例えばボランティアにしろ寄付にしろ、それは一見相手のためになってるようにも見えるけど、結局のところ、その行動をして自分が気持良いからやっているわけで、その行動することによる時間や労力、お金などの損失分と、自分の中での自尊心とか、脳内で分泌されるドーパミンの期待値などを天秤にかけて、後者の方がより比重が大きい、という計算結果が出るからやるわけじゃないですか。
それは利己行動とも言えるんじゃないですかね。
みたいなことを考えてたんですけど、更に思考を深めていくと、そもそも利己と利他ってのはラインで引けるものなのか?とも思えてくる。
私がゴミを拾う。という行為。
この結果、得をするのは誰か。
私→気持ちいい。
未来の私→毎日の散歩道がキレイで気分がいい。
周りの人→景観が戻って安心
地域→文化レベルがちょっと上がる
社会→誰かの"やってみよう"の連鎖が生まれる
ここに境界線は引けるだろうか。
否。
これはスペクトルになっている事例だ。
利己と利他に明快な境界はなく、「利他的な利己」や「利己寄りの利他」などグラデーションになっているのだと思う。
なので、難しく考えずに、自分が気持ちよくて、結果周りも気持ちいいなら良いじゃない!
っていう。
そーゆう世界を目指すのが良いのではないか。
そのような結論。
とはいえ、それは脱線した話であり、本筋に戻すとしよう。
そんなこんなで、ゴミを拾ってキレイにして、次の日もまぁ普通にウォーキングに出かけて、その小径を通るわけなのですが、これがねぇ。
なかなかに気分が良いのですよ。
良い。
思った以上に良い。
清々しい。
そして晴れやか。
100%ひらって良かったわ。
これはねぇ。
一見、物理的にゴミを拾ってるようで、本当に拾ってたのは未来の自分の脳のノイズだったんですよ。
ここにもし、今も同じようにゴミが散乱していたら。
きっと朝の散歩はなんとなく気分も上がらず、なんとなく嫌な心持ちで毎日通ることになるのでしょう。
その内慣れてくるのだろうが、なんとなく心の何処かにある小さな気がかり。そして後ろめたさ。
そのようなものが、あるいは、どこかで、この道を通るのを辞める選択肢につながってしまうかもしれない。
ともすると散歩自体が存亡の危機に陥ることもあるかもしれない。
そんな未来の分岐をも私は摘み取ったのだ。
利己行為バンザイである。
そしてなによりなことが後日談として。
まずは昨日のことなのだが、またしても盛大にゴミが巻き散らかされていて、そしてその中心にはやはりカラス。
想像通り犯人はカラスだった。
しかも今回はまた派手に散らかしましたなぁ。
しょーがない、また明日拾うか・・・
と思ってその日は帰宅して、本日、ゴミ袋を持参して行ったわけなのですが。
なんとビックリ。
全部まるっとキレイになってたのでありました!
まぁね。
もちろんこれは偶然だと思いますよ?
思いますけどでも。
もしかしたら。
もしかしたらの話ですけど、この前ゴミが散乱してた時も、実は見ていて気になってた人が結構居て、ある日それがなくなってた(私が拾った)。
その事実に直面して「あ、拾っても良いんだ」と。
どこかの誰かが思ったかもしれない。
それがもし今回の顛末に影響していたんだとしたら。
それは嬉しいし楽しいことじゃないですか。
誰にも見られずにしたことが。
巡り巡って誰かの行動しようとする背中をそっと押す何某かの作用を及ぼしてたのだとしたら。
そんなんもう最高の利己行動じゃないですか。
まぁそれがホントかどうかはどうであれだ。
結局そんなことでいいと思うのですよ。世界を変えるなんてことは。
自分が楽しくて、気持ちよかったら、どこかで誰かが得をする。
世界は優しい複雑系で成り立っているのだ。

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