若者は情報の海に溺れるがいい
今日の早朝ウォーキングはちょいと足を伸ばして徒歩30程度のところにある森林公園まで行ってみた。
朝6時半の公園はひんやりと空気が冷えていて、まだ人間の侵入がない植物達の世界。
マジかよこれは樹木との会話が捗るぜーと思いつつ歩いていると視界に老人が一人。
うむ。まぁ一人くらいは居るわな。
と、少し行くとまた老人が一人。
なるほど。
そして更に行くとベンチのところでは井戸端会議に興じる老人が数人。
噴水のところでは馬鹿騒ぎする老人グループ。
老人かッ!
という感じでね。
老人楽しそうだわー
何よりだわー
しかしやはり年を取ると皆自然に帰るのだよなぁ
多くの経験を経て、物事の侘び寂びが理解できるようになってくるというのもあろうが、やはり、物理的に脳のスペックが落ちて先端世界の情報量に耐え切れなくなり、結果、タイムラインがスローな植物や風や水や土の世界に行き着く、というのもあるのだろう。
一方で、若さというのは今まさに咲き誇らんとするように帯域全開。
情報も刺激も可能性も、同時に大量に処理できてしまう。
それ故に溺れるし、ぶつかるし、けつまずくし、燃え広がる。
こともあろうけれどもしかし。
だからこその若さ。
風の流れや水の音、光の方向、土の湿り気、そんな微細な感覚世界は老人になってからでも十分堪能できる。
いや、老人だからこそ味わえる。
なればこそ今は。
刹那的だろうが、ドーパミンハイパーインフレだろうが、感覚麻痺だろうが、良いではないか。
走れるのであれば走ったら良いではないか。
老人になれば走りたくても走れなくなるのだ。
追いたくなっても追えなくなるのだ。
そしてやがて追わなくなり。
追いたくもなくなるのだ。
それが老いというものだ。
みたいなね。
事を考えつつ、今は情報の海と自然の流れの両極をたしなめる50代という境界にいる自分のフェーズが如何に貴重な時間なのかを再認識した次第。
早朝の霞がかった木々の間を歩きながらも、最先端テクノロジーやAI、進化論についても同時に思考できる。
内側も外側も、過去も未来も、全方位、全帯域で思考を巡らせることができる。
そんなチートフェーズ。
それが我が青春の50代。
若者よ、老人に詫びろ!
老人よ、若者に跪け!
そして私はその両方を統べる!(詫びるし、跪く)

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