「50代でもモテる方法」から始まる世界の根幹への旅

 いよいよ秋も終わり、本格的に冬到来の様相を呈してきた神奈川は辻堂なわけですが、早朝ウォーキングで訪れる神社のイチョウもすっかり葉を落とし、これからは街の木々も彩りを失いさみしい期間が続くなと、去年までの私ならそう思ってたであろうが、何故か今年は違う。

興味が変わってきたのか、去年までなら目に映りもしなかった、落葉して骨だけになったスカスカの木の姿になぜかわからないのだけど心が惹きつけられるのだ。

端的に言って「カッコいい」

そして、この前なんて特に、早朝、神社の社(やしろ)に手を合わせて、ふと見上げるとイチョウの木の梢に、登ったばかりの朝日の陽光が照らし、まさに息を呑むような神々しさ。

できれば8時間くらいかけてじっくりスケッチしたいという気持ちだったが、朝のウォーキング時間ではそんなわけにも行かず、仕方なく写真にパシャリ。

しかし案の定、家に帰って確認してみると、あの感動の1/100も再現できていなかった。



じゃっかん話は横道にそれるけども、これは以前から思っていたことで、特に雄大な自然なんかは、写真に撮ると肉眼で感じた打ち震えるような感動が全く切り取れないんですよね。

これはまぁ、いかんともしがたい腕前の問題もあるのだろうがしかし、やはり肉眼と写真では決定的な違いが幾つかあるのだと思うのですよね。

まず第一に立体視できていない。

肉眼は2つの微妙に違った角度のレンズから入ってきた情報を脳内で統合して一つの奥行きのある像にしているわけだけども、写真の場合はその奥行情報が全て消し飛んでいる。

第二に時間の流れが取り込めない。

写真はその一瞬を切り取っているいわば時間標本なわけだが、肉眼は実は焦点が合っているのはほんの狭い範囲だけでその周りは脳が勝手に補完しているに過ぎない、なので、その景色全てを把握するには、数秒~十数秒かけて視点を移動して全てを把握しなくてはならない。その時間分の体験のワンパックなのだ。

そしてもちろんのことだが、その体験は視覚だけによるものではなく、実際は五感やそれ以上の感覚を使って身体全体で感じている全身イベント。

社から見上げたイチョウの梢には、朝の冷たい空気の肌感覚や朝日の眩しさ、風の音や感触、鳥の声、見上げた首の痛み、それらがないまぜとなった一大イベントだったわけだが、写真で切り取れるのはその中の視覚情報の一部のみである。

1/100も残ればまぁ御の字だろう。あとは記憶で補完するしか無い。


さて話を元に戻すと、そんなわけでこのイチョウに限らず、今年はやけに街中の葉の落ちた骨格だけの木々に目が行く毎日なのです。

なぜなのか。

たまたま興味がそちらに移ったからか。

うむ。

私も特に考えることなく漠然とそんな風に思っていたのだが、よくよく思考を巡らせると1本の流れが見えてくる。

つまり私のここ数年の興味の変遷。

そこにこそ答えがある。

あまり明確に覚えているわけではないが、つい3年くらい前、私の興味はだいぶ違うところにあった。

YouTubeで見る動画は「お金の勉強」や「成功するマインドセット」「運の法則」「50代でモテおじになる方法5選」などの即物的で表面的なものばかりだった。

しかし、それらをあらかた吸い尽くすと、だんだん興味は「脳科学」「生物学」「宗教学」「地政学」などのアカデミックな分野に移ってくる。

そして、これば明確に覚えているのだが今年の8月頃「よし、これからは自然からエネルギーを得ていくフェーズにしよう」と何故か思い立ち、そしてそれが妙に自分の心にしっくり来て、朝散歩を契機に、海に行ったり神社に行ったりして、手近だがしかし奥の深い自然の世界に少しずつ足を踏み入れていくことになったのである。

数カ月観察を続けている内に、そこはノイズとゆらぎが混在し、刻一刻とその姿を替えていく膨大な情報量のある空間であることが少しずつ理解できてきて、TikTokやYouTubeのショート動画とは全く別物の爆裂エンターテイメントショーが繰り広げられていた事実を知ることになるのである。

そして更に興味は自然の美しさや優しさなどの表面的なものから、本質的な部分へと移行していく。

そんな時に現れたのが、葉の落ちた樹木の真の姿である。

意匠が全て取れ、骨格だけの樹の本体から感じられるのは、構造、本質、法則、といった、より純粋な世界のシステムに通じる情報群。

普通に歩いていればただの枯れ木と目にも止まらないが、よくよく観察してみると、その枝一節一節の角度や表情、分岐の癖、枝先に行くに従っての太さの減衰率など。もはや見応えしか無い。

そして驚くべきは、それら一つ一つの枝のローカルルールが全体を包む構造にまで拡張されている美しきフラクタル構造。

毛細血管の分岐のようにも見えるし、肺の気管支のようにも見えてくる。

用途は違うが、血管は栄養素を最適な経路で運ぶため、気管支は空気を隅々まで届けるため、樹木は空からの光を余す所なく効率的に吸収するため、結果、同じ構造に収束する。

これが美でなくなんであろうか。

そして重要なのはだ。

これらの活動には「一切の作為がない」ということ。

誰かによる編集や圧縮、増幅、意図、意思、などが一切ない生のデータ。

物質本来が持つBehavior(振る舞い)

つまりだ。

私の興味の変遷は、明確に1次情報に近づいていく流れだった。

より手の加えられていない生の情報へ。

そこにこそ世界を紐解くシステムへの道がある。


なので、物事の構造や本質に興味が向くフェーズに差し掛かっていた私にとって、葉っぱというインターフェースを外し、構造・力学・履歴をそのまま晒している樹木の姿に惹きつけられるのは必然で、それを読み解きたい、理解したい、腹に落としたい、という気持ちから「8時間かけてスケッチしたい」という気持ちが湧いて出たのだと思う。

私にとってあまりの情報量の多さに、社の下で見上げる数分では到底理解できるものではなかったのだ。

恐らく8時間はかかるだろうと。

そう判断したのだろう。


そう考えていくと、私が今、自然に立ち返っているのは、前回話したような早朝の公園に集まるご老人達が人生の終盤に自然に帰っていくのとは、じゃっかんルートが違うのかもしれない。

自然の時間の流れがゆっくりだと思ったら大間違えだし、自然に情報量が少ないと言ったらそれも大きな誤解だ。

よくよく目を凝らして観察すると、彼らはまさに刻一刻と姿を変えているし、また、ノイズやゆらぎも含めたその情報量は暴力的ですらある。

得るものが逆に多すぎて脳がオーバーヒートを起こしそうなくらいの毎日なのだ。

全く優しくないナチュラリストの誕生である。


しかしだ。

このフェーズも恐らくただの途中経過の一つの段階に過ぎないのであろう。

ここは悟りでもなければ終着点でもない、ただの途中駅だ。

3年前のモテおじ動画を見ていた自分が懐かしく思えるのと同様、来年、再来年には、また全然違う場所にきっと居るのだろう。

そこが今より先にあるのか。

はたまた元の場所に戻るのか。

あるいは螺旋階段のように、同じ座標かと思ったら一つ上の階層に居たり、また下のレイヤーに潜っていたりするのかもしれない。

どこに行くのかはわらないが、自分の変化が楽しみだ。

今の私自身こそが最高のエンターテイメントだ。


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