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アリのバカさ加減に宇宙の真理を見る

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この前、庭のアリを観察してたんですけど、奴らのバカさ加減にはほとほとヘドが出る ダンゴムシの死骸を一人で運んでる個体がいたのよ。 それを見てたんだけど、 ちょっと引っ張っては離し、周囲をウロウロ。 また掴んでは離し、ウロウロ。 なかなか進まない。 そして終いにはウロウロしてる内にダンゴムシを見失って向こうへ行っちゃって、結局帰ってこなかったという・・ そして次に来た2匹は、お互いに邪魔して奪い合うような感じで運んでる。 あぁ、別の巣の個体同士が取り合ってるんだろうな。 そう思って見てたら、最後、巣に到達して、結局二人とも同じ穴に入ってったとか・・ マジかよ! もっとちゃんとして! 男子掃除して! って話じゃないですかぁ どーゆうことやねん、と。 アリはもっと統制の取れた組織的な生き物ちゃうんか、と。 そんなクソ雑魚挙動のアリどもを見ながら激しくいぶかったものだったのですがしかし。 一匹一匹はランダム性が強く、ミスも多く、非常にアバウトな動きをしているものの、 結局、結果的にはダンゴムシの死骸は巣穴に持ち運ばれた。 全体のシステムは機能しているのだ。 そこに居るアリ1匹1匹は全くのおバカさんなのにも関わらずだ。 なぜか。 これが数と時間のマジック。 その個体一つ一つは非常に単純なルールの下に動いているだけなのだが、 しかし完全なランダムではなく、少しのルールが備わっている。 その少しのルールが寄せ集まり、数の暴力が生まれた時、そこには確率の世界が顔を出す。 確率とは、時間を経るごとにその偏りに収束する力だ。 つまり、アリの生存戦略は数と時間込みなのだ。 そこにアリのしたたかな強さがある。 個々の賢さを上げて精度を高くすればダンゴムシの死骸は恐らく最短距離で巣穴に持ち運ばれただろう。 そして、他の個体も次々に獲物を運び入れる。 大成果だ。 しかしそこには落とし穴がある。 精度を上げる為にロジックを固めていくと、横からの攻撃に脆くなる。 つまり環境変化だ。 一つの環境に最適化された無駄を排した動きは、 短期的には非常に高いパフォーマンスを見せるが、 環境変化の激しい自然界においては脆弱であり、 急激な変化に対応できず、最悪一族もろとも絶滅してしまうことにもなりかねない。 いや、実際絶滅してきたのだろう。 今残っているのは、そうした荒れ狂う環境変化に対応できて来た種なのだ。...

青春タイムマシン

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そんなわけで最近数回に渡ってお話している青春論。 その実践編として、五十路を向かえた私の新たな挑戦であるところの、 『ネット黎明期のテキストサイト復活プロジェクト』 これの全貌をつまびらかにしてきたいと思う次第でございます。 さてしかし、 意気揚々と新たな船出に漕ぎ出したわけですが、 これがいちいち上手く行かない。 PCの奥に眠っていた、いにしえのファイルを掘り出してサーバにアップするも、 全て文字化けして読めない。 CGIは機能しない。 スマホで、まんべんなく表示が崩れる。 それらを本当に試行錯誤の苦難の末にひとつひとつ解決していく。 CGIが動かないのなんて酷いよ? サーバ会社のCGIの説明通りにやってんのに、 その説明自体が更新されてなくて古い情報のままだったというね。 だってこの令和の世に誰もCGIなんて使わないもん。 そら更新もしないわ。 しないしない。 こんなん苦情出しても完全にカスハラですよ。 いやぁ、この罠を見破るのにはホントに苦労した。 だいぶ悩みましたよ。 しかし。 しかしだ。 言わせてもらうと、その試行錯誤こそが"青春"なのですよ。 苦難に苦難を重ね。 あーでもない、こーでもない。 遂には諦めかけて・・ しかし諦めきれず。 更に深く追求していく。 そして全ての苦難の果てに遂に表示されたアクセスカウンター この嬉しさたるや! ドーパミンどっばーーーですよ。 誰も見ていない。 評価もない。 にも関わらず。 私の脳内では激しく神経伝達物質が分泌され、 充足感 達成感 高揚感 恍惚感 あらゆる感情が交錯し、 心の底から打ち震える。 たかだかカウンターだろ? ノン! これは世界を牛耳るアルゴリズムに対するカウンターカルチャーだ! キミ達は情報を見ているのか それとも見せられているのか 自らの意思で行動しているのか あるいは行動させられているのか その動画は本当に見たくて見ているのか? そのスワイプはキミの意思なのか? 私は自らの意思で! 自分の欲求に従い! 困難に臨み! そして打ち勝った! これが青春でなくてなんであろうか! 確かにカウンターが動いた事実。 それは些末なことだ。 しかしそれを取り巻く全ての経験のパッケージ。 その価値は如何ほどか。 敢えて言おう。 至上である、と。 人生で得られる最高の宝は"結果"で...

青春再生~実践編~(何度でも蘇るさ!)

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ここ数回、私の辿ってきた青春について言及してきたのですが、 その中の1つ 2000年前後のネット黎明期にやっていたテキストサイト というのがあります。 当時、ようやくインターネッツが一般に普及し始めて、 それは、まだありえないような通信速度だったし、 料金も時間制あるいは従量制で、 接続してるとチャリンチャリンとお金が落ちていくので、 必要なページを表示させて、一旦接続を切って、 みたいなことをやっていた時代。 まだ企業のサイトはほとんどなくて、 個人のアーリーアダプター達がポツポツと自分のHPを作っている、そんな状況。 しかし次第にその流れは大きくなっていき、 徐々にHTMLも浸透して、 後続の一般層もその流れに加わり、 やがて個人HPの大航海時代がやってくるわけでございます。 そして、私もご多分に漏れずその流れに乗り、 HTML大全的な参考書を購入し、 PowerMac7500のシンプルテキスト(Winでいうメモ帳)で、 コードを手書きして、 Fetchでサーバに繋いで、 プロバイダー契約で付いてくる20MBのスペースに、 見様見真似でファイルを上げてみる。 そして初めて自分の書いたその数文字のテキストが、実際に画面に表示されたあの時の感情たるや! え、こんなことってホントに出来るんだ! それはもう凄まじい程の人生のパラダイムシフト おびただしい量のドーパミンが脳内を駆け巡ったものです。 まぁ最初に画面に表示された数文字のテキストは 「うんこ」 でしたけどね! 参考書には"wolcome"って書いてあったんですけど、 そんなん書いてる場合じゃない。 うんこでしょ。 まずはうんこでしょ。 みたいなことから私の冒険は始まったわけですよ。 以後、少しずつ自分のワールドを作っていって、 当時主流だった ・アクセスカウンター ・BBS ・リンク集 なんかも次々に設置していく。 まぁしかし、最初に「うんこ」って書く人間ですからね。 当然中身も汚物まみれですよ。 そうなると自然、人もやって来ないわけで、 閑散とした時間がただただ流れるのみでございました。 しかしそんなことはそれほど問題ではなかった。 当時はネッツ民の絶対数が今とは桁違いに少なかったし、 今のように"いいね機能"などなかったので、 ひとりふたり、たまに訪れてくれるのが最高...

青春再生方法

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前回お話したように、 52年間の私の半生には 中高生のいわゆる通常の青春時代の他にも ・ネット黎明期にやってたテキストサイト時代 ・コンテンツがバズり散らかしたゲーム制作時代 ・発達障害2人の子育て時代 ・心不全、離婚、別離、貧困の大苦難時代 ・その他あまり公にはできない物も2つほど などなど 人生のあちこちに無造作に青春時代が散乱しているわけでございます。 なぜか。 理由は色々あると思いますが1つ言えることは、 常に新規性に飛びついてそれに全力でブチ当たっている。 そして何よりその状況を楽しんでいる。 例えそれが苦しいものであっても。 更にもう一つ重要なのは、 その後に、その経験により自分の精神が大きく成長している。 いや、必ずしも成長ではないのかもしれないが、少なくとも大きな変化を遂げている。 振り返った時に 「あの頃は若かった」 「最高に楽しかった」 と回想することができる。 つまりだ。 私は維持フェーズが苦手な人間なのだ。 なんにせよ変化を求めてしまう。 "いつもと同じ日常"に退屈してしまう。 それが例え恵まれた状況だとしてもだ。 そして自分で変えた状況にしろ、不可抗力で陥った状況にしろ、 それを受け入れて、全力で楽しむ いや、意識して楽しもうとしているわけではない。 楽しく"なってしまう"のだ。 ワクワクが止まらない どうしてやろうか手ぐすねを引く手が痙攣を起こして大騒ぎだ 逆になぜ一般的には青春が1度しか訪れないのか。 中学、高校、大学、就職 これらの状況変化は人生の強制イベントだから、 普通に生きていれば誰にも必ず訪れる。 望もうが望まなかろうが強制的に新規性に晒される。 そして当然その過程で精神は変化を余儀なくされる。 物理的に脳も成長過程。 人生の経験もゼロベース。 未知の世界がどんどん埋められていく。 そして世界が固まっていく。 予測モデルがスカスカだった頃は遭遇すること全てが予想外で誤差だらけ。 脳が感じる情報量も爆発的で、分泌されるドーパミンの量も桁違い。 しかしやがて脳内の世界モデルが徐々に出来上がってくると 予測外の出来事が少なくなっていく。 そして、無意識にこう思う 「世界は大体理解した」 多くの人間は20前後までに経験した世界でその後生きていく。 自ら状況を変えようとはなかなか思わない。 そして...

私の人生青春だらけwwwwwwww

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前回「青春」その定義について皆と熱く語り合ったわけですが、 本来、10代の頃に一度訪れるその "輝き"と"狂気"に満ちたひとときが、 稀に何度も訪れる人が居りまして。 何度も何度も訪れる人が居りまして。 それがいわゆる私です。 そんな希少サンプルの私の生き方を紐解いて、 青春の再生方法を白日の元に引きずり出して行こうではありませんか。 いや、この年になると結構、昔を思い起こす機会も度々ありまして、 つい先だっても、ひょんなことから旧知の(ネット上の)友達と、 2000年前後のネット黎明期に私が作ってた個人HPを懐かしく振り返る会が催されて、 ホントに小さいサイトでアクセス数も100とか200とかそんな規模だったんだけど、 とにかく当時夢中になって作っててね。 インターネットがようやく広まり出した頃で、 HTMLもMacのメモ帳的なアプリに手書きで書いて、 モデムにつなげてアップロードして、 そんで初めて自分の書いたものが画面に出た時には もう魔法のような感覚がしてね。 テンション爆上がりだったんですよ。 多分4~5年くらい続けてたと思うんですけど、 その時みんなとワイワイやりながら作ってたのが、ホントに楽しくてね。 あの頃は我々の青春だったよなー って。 しみじみと振り返ってたんですよ。 しかし、その感覚は少し前にもあって、 私は、その黎明期の個人サイトの後にゲームサイトを作ってたんですけど、 そのサイトは一気に世界中でバズって、 アクセス数も1日40万とか、そんな規模に膨れ上がって、 その後10年くらい世界中のみんなと交流しながらゲームを作りまくってたんですよ。 でも、その時使ってたFlashっていう技術が、 時代の流れで消滅してって、 それに伴って私の作ったゲームも遊べなくなって終焉を向かえてったのね。 ところが数年前にそのFlashを復活させる技術が出てきて、 それで、眠ってたゲーム達を全部リカバリーしてたら、当時の記憶がわーっと思い出されて、 あぁあの10年は私にとっての青春時代だったなー って。 しみじみと思ったもんだったんですよ。 しかし、とはいうものの、 実際の10代の頃のいわゆる青春時代というのも私にはあって、 部活に恋にバンドに受験にと。 まぁ絵に描いたような青春もまた送っていたわけなのですよ。 あの頃もホン...

青春て結局のところなんなのよっていう

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さて、青春は大人になっても作れる。 そんな話をしようじゃないか(そんな話はしない)。 そもそものところ青春とは何か。 定義めいたものはあるのだろうか。 調べてみると、明確な定義は無いにしろ、概ね、 10代から20代前半の、 夢や希望に満ち、 情熱や好奇心に溢れた、 未完成で熱量のある時期。 的な感じに収束するようである、しかし。 確かに「青春とは?」と問われれば、 そういうキラキラしたイメージが浮かんでくるかとは思うのだが、 果たして10代のいわゆる青春真っ只中の人間たちが皆、 夢や希望に満ちているだろうか。 情熱や好奇心を持っているだろうか。 何かに夢中になるような熱量を持っているだろうか。 否。 と答えるしか無かろう。 そんなのはごく一部の限られた人間の偶像だ。 実際、多くの若者は、ただ何者にも成れず、 自分の可能性も感じず、勇気や挑戦などとは縁遠い日常を、 ただ淡々と無為に過ごしている、 というのが現実ではなかろうか。 しかしそれでも、 時が過ぎ、大人になり、 社会で精神をすり減らし、 日々ギリギリの中で生きている時、 ふと10代の頃を思い出すと、 そうした無為に過ごした日々でさえやはり 「あの頃は青春だった」 と感じるものである。 なので、実は、青春の要素に「エネルギー」的なものは含まれていないのではないか。 もっとなにか漠然とした存在の在りよう。 何者でもないという宙ぶらりんな状態。 何者かになる必要もなく、 ただ存在が許されていた、 その独特の浮遊感の中で彷徨い続ける状態。 そんな「ただ時間が過ぎていくことに対する、無防備で残酷なほどの純粋さ」なのかもしれない。 コンビニ前でなんとなく話してた時間。 授業中にぼ~っと外を眺めていた時間。 そうした「何も無い」「退屈」「漠然とした苛立ち」 そのような茫漠とした時間もまた青春の一コマなのだ。 いや、そうした無為な時間を過ごしてきた人間はむしろ、 青春の本質的な痛みを知っているとも言えるのかもしれない。 しかし、無為に過ぎゆく時間を青春と定義すると、 例えば年金受給者の老人達の日々もまた青春、 ということになるが、 多くのご老体達は、そうした感覚はないだろう。なぜか。 そこには成長過程の脳の構造が一役買っているのかもしれない。 第1に、物理的にまだ前頭葉が未成熟でブレーキが効かないという問題。 若者は感情を制御...

SNSに意識はあるか→確かめてみようじゃないか

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SNSが、社会の神経系のような動きを持ち始めている。 という説はよく言われる。 例えば、ここ最近の米国の動向などから、 個々人の不安感情がSNSの各地で発火して、 それらが集合して全体としてのざわめきの流れのようなものを作り上げている。 オリンピックの時などは熱狂・興奮、 年末年始はゆったりとした楽しみ、 また、注意が一箇所に集中するバズやトレンド、 怒りが即座に全体に伝播する炎上、 危険や異常に過剰反応するネガティブ情報の拡散など、 個々の感情が大きなうねりを作り、 その上層に、あたかもより大きな感情の動きが発生しているかのように見える。 倫理的、社会的、プライバシーの観点など、 様々な問題があるので実現は極めて困難ではあろうが、 もし、XやInstagramなどの大規模SNSで、 各個人の投稿内容を分析し、 その感情情報の全体としての偏りを、 擬人化した表情などで表現する仕組みを作れば、 あるいはそこに、意識めいたものを感じることができるようになるかもしれない。 今はそうした出力先がないから、目に見える形での感情は読み取れないが、 炎上過多の時は怒りの表情を、 バズってる時は興奮する表情を、 などのような感じで、視覚的に確認できるようにしてやると、 途端に生き物的な挙動を感じることができるようになるかもしれない。 既にインスタやXの内部では投稿者の感情分析が行われていて、 テキストや絵文字の使い方、画像、反応速度などから 「ポジティブ」 「ネガティブ」 「怒り」 「恐怖」 「興奮」 などの感情を数値化する試みがなされている。 現在は、市場の予測や世論分析などの研究や内部指標に留まっているが、 それを応用すれば、技術レベルでは既に実現可能なモデルなのだ。 「意識は複雑な情報統合から生じる」という情報統合理論的な考え方を拡張すれば、 巨大ネットワーク上に、新たな意識が芽生える可能性というのは、むしろ自然である。 アリの巣は、個々のアリの単体の動きが集合して全体として都市のような知性を見せる。 脳のニューロンはその一つ一つに心はないが、 集まると意識らしきものが発生する。 両者の違いは出力があるかどうかだけなのかもしれない。 もし、出力器官を作ってやれば、 意識的なものは案外そこかしこに生まれては消えを繰り返しているのが可視化されるのかもしれない。 そしてSNS上にも...