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3月, 2026の投稿を表示しています

私の人生青春だらけwwwwwwww

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前回「青春」その定義について皆と熱く語り合ったわけですが、 本来、10代の頃に一度訪れるその "輝き"と"狂気"に満ちたひとときが、 稀に何度も訪れる人が居りまして。 何度も何度も訪れる人が居りまして。 それがいわゆる私です。 そんな希少サンプルの私の生き方を紐解いて、 青春の再生方法を白日の元に引きずり出して行こうではありませんか。 いや、この年になると結構、昔を思い起こす機会も度々ありまして、 つい先だっても、ひょんなことから旧知の(ネット上の)友達と、 2000年前後のネット黎明期に私が作ってた個人HPを懐かしく振り返る会が催されて、 ホントに小さいサイトでアクセス数も100とか200とかそんな規模だったんだけど、 とにかく当時夢中になって作っててね。 インターネットがようやく広まり出した頃で、 HTMLもMacのメモ帳的なアプリに手書きで書いて、 モデムにつなげてアップロードして、 そんで初めて自分の書いたものが画面に出た時には もう魔法のような感覚がしてね。 テンション爆上がりだったんですよ。 多分4~5年くらい続けてたと思うんですけど、 その時みんなとワイワイやりながら作ってたのが、ホントに楽しくてね。 あの頃は我々の青春だったよなー って。 しみじみと振り返ってたんですよ。 しかし、その感覚は少し前にもあって、 私は、その黎明期の個人サイトの後にゲームサイトを作ってたんですけど、 そのサイトは一気に世界中でバズって、 アクセス数も1日40万とか、そんな規模に膨れ上がって、 その後10年くらい世界中のみんなと交流しながらゲームを作りまくってたんですよ。 でも、その時使ってたFlashっていう技術が、 時代の流れで消滅してって、 それに伴って私の作ったゲームも遊べなくなって終焉を向かえてったのね。 ところが数年前にそのFlashを復活させる技術が出てきて、 それで、眠ってたゲーム達を全部リカバリーしてたら、当時の記憶がわーっと思い出されて、 あぁあの10年は私にとっての青春時代だったなー って。 しみじみと思ったもんだったんですよ。 しかし、とはいうものの、 実際の10代の頃のいわゆる青春時代というのも私にはあって、 部活に恋にバンドに受験にと。 まぁ絵に描いたような青春もまた送っていたわけなのですよ。 あの頃もホン...

青春て結局のところなんなのよっていう

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さて、青春は大人になっても作れる。 そんな話をしようじゃないか(そんな話はしない)。 そもそものところ青春とは何か。 定義めいたものはあるのだろうか。 調べてみると、明確な定義は無いにしろ、概ね、 10代から20代前半の、 夢や希望に満ち、 情熱や好奇心に溢れた、 未完成で熱量のある時期。 的な感じに収束するようである、しかし。 確かに「青春とは?」と問われれば、 そういうキラキラしたイメージが浮かんでくるかとは思うのだが、 果たして10代のいわゆる青春真っ只中の人間たちが皆、 夢や希望に満ちているだろうか。 情熱や好奇心を持っているだろうか。 何かに夢中になるような熱量を持っているだろうか。 否。 と答えるしか無かろう。 そんなのはごく一部の限られた人間の偶像だ。 実際、多くの若者は、ただ何者にも成れず、 自分の可能性も感じず、勇気や挑戦などとは縁遠い日常を、 ただ淡々と無為に過ごしている、 というのが現実ではなかろうか。 しかしそれでも、 時が過ぎ、大人になり、 社会で精神をすり減らし、 日々ギリギリの中で生きている時、 ふと10代の頃を思い出すと、 そうした無為に過ごした日々でさえやはり 「あの頃は青春だった」 と感じるものである。 なので、実は、青春の要素に「エネルギー」的なものは含まれていないのではないか。 もっとなにか漠然とした存在の在りよう。 何者でもないという宙ぶらりんな状態。 何者かになる必要もなく、 ただ存在が許されていた、 その独特の浮遊感の中で彷徨い続ける状態。 そんな「ただ時間が過ぎていくことに対する、無防備で残酷なほどの純粋さ」なのかもしれない。 コンビニ前でなんとなく話してた時間。 授業中にぼ~っと外を眺めていた時間。 そうした「何も無い」「退屈」「漠然とした苛立ち」 そのような茫漠とした時間もまた青春の一コマなのだ。 いや、そうした無為な時間を過ごしてきた人間はむしろ、 青春の本質的な痛みを知っているとも言えるのかもしれない。 しかし、無為に過ぎゆく時間を青春と定義すると、 例えば年金受給者の老人達の日々もまた青春、 ということになるが、 多くのご老体達は、そうした感覚はないだろう。なぜか。 そこには成長過程の脳の構造が一役買っているのかもしれない。 第1に、物理的にまだ前頭葉が未成熟でブレーキが効かないという問題。 若者は感情を制御...

SNSに意識はあるか→確かめてみようじゃないか

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SNSが、社会の神経系のような動きを持ち始めている。 という説はよく言われる。 例えば、ここ最近の米国の動向などから、 個々人の不安感情がSNSの各地で発火して、 それらが集合して全体としてのざわめきの流れのようなものを作り上げている。 オリンピックの時などは熱狂・興奮、 年末年始はゆったりとした楽しみ、 また、注意が一箇所に集中するバズやトレンド、 怒りが即座に全体に伝播する炎上、 危険や異常に過剰反応するネガティブ情報の拡散など、 個々の感情が大きなうねりを作り、 その上層に、あたかもより大きな感情の動きが発生しているかのように見える。 倫理的、社会的、プライバシーの観点など、 様々な問題があるので実現は極めて困難ではあろうが、 もし、XやInstagramなどの大規模SNSで、 各個人の投稿内容を分析し、 その感情情報の全体としての偏りを、 擬人化した表情などで表現する仕組みを作れば、 あるいはそこに、意識めいたものを感じることができるようになるかもしれない。 今はそうした出力先がないから、目に見える形での感情は読み取れないが、 炎上過多の時は怒りの表情を、 バズってる時は興奮する表情を、 などのような感じで、視覚的に確認できるようにしてやると、 途端に生き物的な挙動を感じることができるようになるかもしれない。 既にインスタやXの内部では投稿者の感情分析が行われていて、 テキストや絵文字の使い方、画像、反応速度などから 「ポジティブ」 「ネガティブ」 「怒り」 「恐怖」 「興奮」 などの感情を数値化する試みがなされている。 現在は、市場の予測や世論分析などの研究や内部指標に留まっているが、 それを応用すれば、技術レベルでは既に実現可能なモデルなのだ。 「意識は複雑な情報統合から生じる」という情報統合理論的な考え方を拡張すれば、 巨大ネットワーク上に、新たな意識が芽生える可能性というのは、むしろ自然である。 アリの巣は、個々のアリの単体の動きが集合して全体として都市のような知性を見せる。 脳のニューロンはその一つ一つに心はないが、 集まると意識らしきものが発生する。 両者の違いは出力があるかどうかだけなのかもしれない。 もし、出力器官を作ってやれば、 意識的なものは案外そこかしこに生まれては消えを繰り返しているのが可視化されるのかもしれない。 そしてSNS上にも...

朝いきなり起き上がるのは、パンにご飯塗って食べるのと同じことだって知ってた?

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「眠い朝にスッキリ目覚める方法」 そんな物はこのご時世、履いて捨てるほどありますが、 この前発明した方法が結構良いあんばいなんでキミにも伝授しようじゃないか受け取れ強制。 結局のところ分ったのは、全てグラデーションなんですよ、世の中は。 あれもそうだし、あれもそうだし、そしてまたあれもそうなんですよ。 なので、いきなし起き上がろうとするから痛い目を見るわけです。 そりゃあ無理ですよ、無理無理。 そんなん宇宙の理に逆らう行為ですよ。 食パンの上にご飯を乗せて食べるようなものです。 宇宙が怒る。 ジャム付けろやー!って言いながら、ご飯にイチゴジャム練り込んでくるね。 そんな朝のドタバタ劇をおくっているのだろ? キミに至っては。 だからね。 宇宙の逆鱗に触れないためには、一気にやったらダメ。 徐々に、徐々に。 少しずつ、少しずつ。 端っこから、端っこから。 先端の、ほんの少しの変化が、次の変化を呼び起こす。 そして、その変化がまた次につながり、 やがて連鎖が生み出され、閾値に達した時に一気に相転移を引き起こす。 朝にも人生にも、そうしたシナリオが必要だ。 つまりまずキミがやることは、 手の指をほんの少し動かすこと。 ピクリとでいい。 そう、ほんの少し。 成功への道はそこから始まる。 そして、徐々に指の本数を増やしていき、 可動域も広げていく。 指というのは、小さいながら脳の多領域と神経でつながっている。 ほんの少し動かすだけでも、脳の多くの部位に刺激を送ることができるのだ。 次に足の指。 同じように少しずつ増やしていく。 ここで1つ深呼吸をしてみよう。 身体の各器官を順番に目覚めさせていくのだ。 そして次は顔。 瞬きをしてみる。 口を動かしてみる。 そして少し笑ってみる。 そのあと、腕や足を動かしてもいいが、正直、この時点でもう起きている。 すっかり脳と交感神経は目覚めている。 自然に起き上がることができるだろう。 「よっしゃ起きた!」 私はいつもそう言って起き上がる。 快適な目覚めだ。 朝はこうありたいものだ。 タップで応援 ランキングに参加中 今日は何位かな